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カルチャー論文(2)「冬の終わりのノストラダムス。~時代にマグマ隕石を投げるゼロから始める論文の詩。SP!~」

(カルチャー論文)

(2)

冬が終わる。ノストラダムスの大予言を思い出す。

終末思考とか、どうとか、じゃない。

季節の変わり目は、時代の変わり目である。

物騒なニュースも多いが、そんなことには負けていられない。

それが、カルチャー論文ニストの生き様だ。

あくまでも、これは流行に過ぎないかもしれない。

特に言及はしないが、カルチャーと絡めると、ブームに似ている側面もある。

一過性のブームやトレンドのカルチャー。

タピオカと例のアレは、よく似ている。ニュースの報道を見ていても、そうだ。

これは、カルチャー視点での例のアレ(世間を騒がせているヤツ)の批評・評論である。

と、推定して書いている。脱線もする。大いに脱線する。

タピオカや、もっと遡れば、コギャルのように「コ~」も終わりが来るだろう。

ノストラダムスは、現代に存在しうるのか?うるう年だからなのか?

わけがわからんが、そういうことだ。因果関係などない。

と、推定している。

この一見、脈略の無い詩の中にも、論文の中にも、ヒントは眠っている。

それを世間では何と呼ぶのか?自問してみてください。

時代にマグマ隕石を投げる、例のアレ、は、次第にゼロになる。

そういう意味合いの論文ではないのですが。

時代には、必ず、終わりが来る。

ポストモダニズムやゼロ年代だって、過去のものだ。

いや、リミックスすれば、現代に蘇るのだけれど。

そんなことだ。意味は深い。ディープである。

だから、どっしりと力士のように腰を据えて、長期戦で粘る。

それが、カルチャー的な世間とのバトルの仕方。

そういうもんなんだよ、時代って。

自分たちは時代を生きている。

時代に意識的になって、ブームを意識しつつ、生きていこう。

一過性なのだ。すべては一過性。

いつかはやがて、人生のように終わりが来る。

人生だって、100年程度。もっと少ないだろう。

それを懸命に生きることが重要なのだ。

一生懸命が重要だ。

と、お茶を濁しつつ、僕はノースカロライナ州へと向かう。

想像の世界へと。

ダイブする。潜る。

また、お会いしましょう。

さようなら、僕。

さようなら、冬。

さようなら、ノストラダムス。

さようなら、( )。