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脱学校的人間(新編集版)〈55〉

 もし自分が「ある一つの個性」あるいは「ある一つの職業」を選択するのだとして、その選択によって「そもそも自分のなりたかった何者かに、実際になることができた」というのであるならば、その人は「その何者かに同定された自分自身」に、きっと何の矛盾も疑問も感じないでいられるのだろう。その何者かであることにおいて表現されているところの自分の個性=アイデンティティには、自分自身つまり「本当の自分そのもの」が十全に表現されているのだと、彼は何の疑いもなく感じられていることだろう。彼の感じているそういった満足は、「何者かである自分自身が、社会の役に立つものとして、社会的に認められている」という認識に裏打ちされて、そのように「社会的に保証されている自分自身を、彼自身が社会的に承認している」ことに条件づけられているものだと言える。
 ではその一方で、「自分がなりたいわけでもなかった何者かに、不本意ながらも実際になってしまった人」の場合はどうであろうか?
「…職業=個性だと考えると、不本意な仕事をするにも抵抗がある。そんな仕事をするのは、『本当の自分』ではない気がする。…」(※1)
「…その職業が、『本当の自分』の姿と合致していないと感じる人を、社会はどう認識するのだろうか?…」(※2)
 実際にはここで「社会が」というよりむしろ、「それは本当の自分ではないような気がする、と感じている自分自身」こそが、そんな自分自身を「本当の自分ではないと社会的に認識している」のだ、ということになるのだろう。そのように「現状の自分の有様は、本当の自分の姿とは合致していない」と見なしているのは、あるいはそのように見なすことができるのは、何よりもまず彼の自分自身に対する、「社会的な視線=他人の視線」であるのに他ならないのである。

 しかしそれが何であれ、そしてたとえ自分自身としては不本意なものであれ、「ともかく何者かにはなった」というだけでも、彼はまだましな方なのかもしれない、「何であれ何者かになりたかったのだけれど、結局何者にもなれずに終わった」というよりは。
 社会は、それが自分自身として不本意であれ、またそれが「本当の自分に合致していない」というのであれ、とにかくその人が従事するその職業において表現されているところの「その人の個性=アイデンティティ」に、「その人自身」なるものを見出すことになる。そして少なくとも彼は、たとえ自分自身はそれが不本意なものであっても、「そのような者として社会に位置づけてもらうことだけはできている」わけなのだ。
 しかしそのような社会でもし、「何者にもなれなかった」としたら、一体どういうことになるのだろうか?
「…職業こそが、個人が『本当の自分』を実現する唯一の手段だと考えるなら、その職業を失った人間は、社会からどう見られるのだろう?自分自身は、その姿をどう見つめるのだろうか?…」(※3)
 もし自分が「何の職業にも」就くことができず、すなわち「何者にも」なれず、ゆえに何一つ社会の役に立たない者だとしか社会的に認められないのだとしたら、自分の個性=アイデンティティなど「社会的には何の意味のないもの」でしかないのであり、ひいては「自分自身においても何の価値のないもの」でしかない。つまり「そのような自分には、何の個性=アイデンティティもない」わけであり、もっと言えば「自分は社会的に存在すらしていない」ということにもなってしまう。そして結果として「社会的に何者でもない者は、社会的に何もない者として認められてしまう」ということにさえなりうる。
 そう考えるならば、「職業を失った人」とはすなわち、「何もない人」であるのに他ならないということになる。よって「何もない人、という社会的な役割」を彼は全面的に、あるいは「全人格的」に担わなければならないということにもなる。そして、職業と個性=アイデンティティが直結しているものだとするならば、「職業を失っているという事実において表現されているところの彼の個性=アイデンティティに、彼自身そのものが表現され見出されている」ということにもなってくるわけだ。ともなれば、あたかも彼はまるで「本来的・生来的にそもそも失業者であった」かのようにさえ見えてくるようにもなるのだろう。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 平野啓一郎「私とは何か」
※2 平野啓一郎「私とは何か」
※3 平野啓一郎「私とは何か」


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