病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈3〉
中条省平は、カミュの小説『ペスト』を第二次世界大戦下での対独レジスタンス活動のメタファーであるとするような一般的な読み方に対して、「倒錯的だ」というように批判する。
しかし、私はむしろここではもう少し、世に広くかつ根深く浸透していそうな、もっと「一般的な倒錯」について考えてみたい。それは、戦争や社会的な抑圧を、病禍や自然災害などに喩えて語ること、あるいはその逆の表現のしかたもまたもちろんあるわけだが、そこでなおかつ、そういった病気や自然災害を、「悪」とする前提で語られることの、その「倒錯」についてである。
たしかにさまざまな病気や自然災害というものは、人間に多くの苦しみを与えることだろう。しかしそれらはけっして、戦争や社会的抑圧のような「何らか思惑のある、意図的なもの」ではない、すなわち「人為」ではない。とすればそこにはたして、「悪」なるものは生じうるだろうか。
また、戦争や抑圧を、疫病や自然災害に喩えて語る、あるいはその逆でもよいが、そのようなときに、戦争・抑圧「そのもの」や、疫病・自然災害「そのもの」の本質とは別のことを、そこで語ってしまってはいないだろうか。そしてそのことにより、戦争・抑圧あるいは疫病・自然災害「そのものの本質」を、見失わせてしまってはいないだろうか。
もし人間が、何らかの疫病や自然災害によって大変な被害を被ったとする。それによりもし人間が、己れに多大な害をもたらした疫病や自然災害のことを憎み、それらを「悪」だと決めつけたとしても、しかし当の疫病や自然災害の方からは、人間に対して当然のことながら何らの抗議も反論も、きっと起きないことだろう。
であれば、そのような「もの言わぬ敵」への一方的な非難や攻撃は、ただただ人間の側の「一方的な正義」の主張になってしまわないのだろうか。そしてそういった「一方的な」表現を、もし戦争のメタファーとして用いるというのは、はたして正当なことだろうか。
もしもある人が何らかの病気になる、そして結果としてその病気により死んでしまうとする。すると、あたかもその病気が、またその病気による死が、その人そのものを象徴するかのように思えてしまう。これははたして正当なことだろうか。その人の人生は、その病気と死しかなかったのだろうか。
ある現象に、ある一つの観念が取りつくと、その特定の観念なしにはその一つの現象を見ることができなくなってしまう。そして、その現象とその観念があたかもイコールであるかのように見えてきてしまう。曰く、病気は悪である、自然災害は悪である、戦争も抑圧も悪である。すると今度は、その観念の共通性に基づいて、それぞれの現象の共通性が見出されてくる。それぞれの現象は「それぞれ本質的に違うもの」であるはずなのに、それらの間に見出された共通性が前面に押し出してくることによって、それぞれの本質が隠され見えなくなってしまう。これもやはり、一つの倒錯なのではないだろうか。
病気はたしかに自然に由来する。しかし自然には、その病気を引き起こす何らの思惑も意図も目的もないし、その病気を引き起こすことによって、自然自身が得られるような何らの利益もない。とすれば病気とはその意味で、そもそも「悪たりえない」のだと言えないだろうか。
一方で、病気はたとえ自然に由来するとはいえ、やはり「自然そのもの」であるわけではない、つまりそれはあくまでも自然「に由来する現象」に留まるものなのであって、ゆえにその現象にはたしかに限界というものがあるのだと言える。そしてそのような、現象としての限界を見極めることができるならば、その現象による影響が全く及ばない領域を見つけ出すということをもまた、できるようになるのではないか。そしてそれによって、その現象を我が身から遠ざけることも、またその現象から我が身をもって遠ざかることも、可能となりうるはずなのではないだろうか。
〈つづく〉
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