ジャン=リュック・ゴダール監督 『恋人のいる時間』 : 女がわからない。
映画評:ジャン=リュック・ゴダール監督『恋人のいる時間』(1964年・フランス映画)
ひさしぶりにゴダールである。
2年前に初めてゴダールを見て「なんだ、これは?」と思ったのがきっかけとなり、ゴダール作品を見るようになった。
また、それに止まらず、映画オタクであった若きゴダールが「シネマテーク・フランセーズ」で見たであろう、モノクロサイレントの古いヨーロッパ映画やハリウッドの古典的作品まで見るようになった。
つまり、それまで「映画」にはさほど興味がなく、娯楽のひとつとしか思っていなかった、徹底した「活字派」の私が、「活字派」的な探究対象として、「ゴダール」と「映画」に興味を持つようになり、それまでは文芸評論しか読まなかった蓮實重彦についても、映画評論系の著作まで読み始めたりもしたのである。
で、その結果、2年ほどかかって、やっと私なりに納得のいく「ゴダールとは、こういう作家だ」という、そんな目星がついたので、先日、中間報告的に、次のような文章を書いた。
もちろんこれは、私なりの「ゴダール理解」であって、万人を満足させるようなものではないだろう。なにしろ私は、ゴダール作品が面白かったのでも、好きだったのでもなく、わからなかっただけなのであり、ただ、その理由を知りたかっただけなのだから。
しかし、ゴダールの映画を見て、当初のそんな私のように「なにこれ? この人(ゴダール)、何がやりたいの?」と、理解不能の混乱に捉えられてしまった人には、私の「ゴダール論」は、きっと参考になるはずだ。
ゴダールは「わかるか、わからないだ」といった「非理性的な趣味的需要」だけで満足する「わかったつもり」の人たちは別にして、「趣味」が合わないなりにも「ゴダールの、どこがどう趣味に合わないのか」ということを考えないではいられない「知性派」には、きっと役に立つはずだ、ということだ。
「ゴダールファン」に限った話ではないが、実際のところ、たいていの「ゴダールファン」は、その知性や理性において「ゴダールを理解している」のではない。
単に、またまた「趣味」に合っていたから「楽しめた」だけであり、だからこそ、評論家の口真似は出来ても、自分の言葉では、まともにゴダールを語ることができない。
もちろん、それも娯楽消費の一種だと自覚しているのなら、それはそれで結構なのではあるが、そんな人こそ、めったにはいないのだ。
だから、ゴダールを楽しめないという人は、それだけで劣等感を持つ必要などはない。
ただ、ゴダールを理解する必要はないのだけれども、ゴダールを理解できない自分(の指向性)を知っておく必要なら、多少はあるはずだ。なにしろ、自分自身のことだからである。
ともあれ、ゴダール初期の長編はたいがい見たので、これからは、「政治がかった」として一般的にはあまり評判の良くない中期から、メジャー復帰した後期の作品を、まだ見てはいない「長編」から見ていきたいと思う。
そのあと暇があれば、短編やビデオ作品などを見てもいいのだが、そこまで暇があるかどうかは、いささか心許ない。
『アルファヴィル』を見て、上の「ゴダール論」を書いてしまうと、それまでのような「ゴダールを理解したい」という欲求が目に見えて薄れてしまったのと、最近では「フェミニズム」界隈の問題に興味を持つようになったためである。
もともと私は気の多い人間で、興味の対象が少しずつ移り変わっていくタイプだから、ひとつの対象に10年以上没頭するということは、なかなかできない。その意味では、私は「オタク」的な人間ではないのだ。
だから、ゴダール個人に2年も没頭できたのは、ゴダールという人が、私にとっては、それだけ「ユニーク」な存在であり、探究しがいのある「謎」を秘めた人だった、ということなのであろう。
したがって、これからは「後片づけ」あるいは「仕上げ」的に、ゴダールの作品を見ていくことになるだろうし、その第1弾が、本作『恋人のいる時間』ということになる。
本作は、ゴダールの初期作品の中では、あまり人気のある方ではないようだ。それで私も、ほとんど期待せずに見たのだが、これが意外に楽しめたのは、たぶん私が、すでに「ゴダールの見方」を、ある程度は体得していたからではないかと思う。一般には、ずっと評判の良い、SFハードボイルドの『アルファヴィル』よりも、私としては、こっちの方がよほど面白かったのだ。
では、本作のどこが、ゴダールの他の人気作ほど評価されないのか、その理由はというと、私の見たところでは、次のようなことになる。
といったところだろう。
なぜ、この二つなのかというと、本作は、
といった点ならば、「いつもどおり」だったからである。
つまり、いつもどおりの美点を備えながら、いつものようにウケないのは、本作が「わかり合えない男と女」という「嫌な問題」を扱った、基本的には「楽しくないお話」であり、かつ、人気のある『気狂いピエロ』や『軽蔑』のような「ロマンティックな悲劇」をさえ描いてはおらず、ひたすら「ディスコミュニケーションの諦観」に満ちた、すこしも「可愛げのない作品」となっているからであろう。
「見ていてワクワクする」ようなところが全く無いので、一般に評判とならないのは、むしろ当然のことなのだ。
この作品には、ゴダールの「鬱」な気分が表現されており、それを「興味深い」と感じなければ、楽しめるわけがないのである。
ただ、注意すべきは、本作で描かれるディスコミュニケーションは、「人間同士の」それではなく、あくまでも「男女間の」それとして描かれている、という点だ。
つまり、この作品において描かれるのは、あくまでも「男であるゴダール」の「女は理解不能だ」という、重いため息にも似た「諦観」なのである。
ゴダールとしては、「女」を理解したいのだが、やはり理解しきれない。いくら考えても、心から「理解できた」という実感を持てない。どこかで「理解しきれない部分が少なからず残ってしまう」という、そんな「澱のようなもの」の存在を、彼は感じずにはいられないのである。
無論これは、ゴダールのミューズであったアンナ・カリーナとの離婚ということが、最大の契機になっているというのは、間違いのないところだろう。
だが、アンナ・カリーナと離婚したから「女はわからない」と考えるようになったのかというと、それはちょっと違うはずだ。
ゴダールは、もともと「女はよくわからない」と思いつつも、そんな「わからないものとしての、女という存在」に惹かれてもいた。
そして、そんな「謎としての女」の魅力を最高に放っていたのが、アンナ・カリーナだったのだが、だからこそ愛したアンナですら、結局は「理解できなかった」。「愛し合えば、分かり合える」とはならなかった。
それを思い知らされたからこそ、本作にしろ、アンナが主演した『アルファヴィル』にしろ、アンナとの別れの後の作品には「女を理解できないことへの絶望的な諦観」が、暗く澱んでいるのである。
言い換えれば、アンナ・カリーナのような「理想の女」に出逢いさえしなかったなら、もともと「女はわからない」と感じていたけれど、男として当たり前に女に惹かれてもいただけのゴダールが、ことさらに「女はわからない」というような映画を撮ることはならなかっただろう。
無論、ゴダール当人は、ことさらに「女はわからない」という映画を撮っているつもりではないのだろうが、アンナとの別れによる傷心が、否応なく画面に滲んでしまったのであろう。
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さて、ここで、本作『恋人のいる時間』の「ストーリー」を紹介しておこう。
この紹介文での、
といった部分は、当然のことながら、「ストーリー紹介」ではなく、あくまでも「ひとつの解釈」でしかなく、本作の中で、そのようにハッキリと語られているわけではない。
ただ、この解釈は「ごく一般的なもの」であり、たぶん、大筋で間違ってはいないだろう。
本作のヒロインである既婚女性シャルロットの描写を見ていると、「女はファッション雑誌が好き」だと、ゴダールがそう考えているのだろうと感じられるのだ。
そして、作品に頻出する「クローズアップされた文字」や「記号」も、「女」が「そういうものの中で、感覚的に生きている」という「女理解」を、ゴダールが暗示しているように見える。
無論、ゴダールがそのとおりに考えているのかどうかは、わからない。ゴダール本人が、どこまで意識してやっているのかも、わからない。
だが、「そのように解釈できる作品=そのような解釈へと、見る者を引き寄せる作品」になっているというのは、間違いのないところだろう。だからこそ、上の「ストーリー紹介」は、「当然の解釈」であるかのごとく、あのように断定的に書いてしまっているのである。
したがって、あのような解釈は、もちろん「多様に開かれた解釈のひとつ」ではあるのだが、「有力な解釈のひとつ」だとは言えるだろう。
そして、ゴダールが「女は、雑誌コマーシャル的な記号で出来ている」と、女性に対していささか否定的に見下した「感情」を持っていたというのは、ほぼ間違いないことのように思う。
言い換えれば、たぶんゴダールは、「女のわからなさ」の理由のひとつとして、「女は、雑誌コマーシャル的な記号で出来ているけれど、男はそうではない」と感じていたであろうというのは、ほぼ間違いのないところであろう。「男は、女とは違って、もっと理性的であり、反自然的に構築的なものだ」といった具合である。
もちろんこれは、「ホモソーシャルなフェミニスト(自分たちが、男とは別種の存在たる女であることを自明とした、女権論者たち)」が好んで使いたがる言葉「ミソジニー(女性嫌悪)」が指し示すものの一種だとも言えるのだが、しかしそういう雑な「レッテル貼り」で満足していては、それはゴダールの嫌うであろう「党派利益追求型の政治運動」にはなっても、「革命」のために「男を理解する」ことには、到底ならない。
ゴダールの「女は、雑誌コマーシャル的な記号で出来ている」というような「女性理解」を、ただ拒絶的に否定するのではなく、そんな「理解」を生み出してしまう、「女はわからない」という「実感的認識」が、「そもそも正確な現実理解なのか?」と、まずそう問うてみることこそが、必要なのではないだろうか。
ゴダールもまた自明視しているほど、「男と女」は、そんなに違ったものなのか、確かなものなのか、というような問いである。
当然、さらに言えば、「わからないのは、女だけなのか?」ということであり、そもそも「他者とは、理解不能な存在のこと」ではなかったのか、ということなのだ。
またその意味では、「男女論」そのものが、雑な「通俗的議論」だったのではないか、ということでもある。
「そもそも論」ばかりで恐縮だが、そもそも人は「自分のことさえ、ろくにわからない」のに、どうして「他人」のことがわかるのだろう。
一一そう考えれば、ゴダールが「女はわからない」と、殊更にそう考えて、その理由を、無理にでも捻り出さずにいられないのは、結局のところ、彼もまた、「オス」として「メス」に惹かれていたためではないのか。
つまり、興味があるからこそ疑問も湧いてくるのであり、逆に言えば「男はわからない」と考えないのは、「他の男」について、「女」ほどには興味が無かったからではないのか。
彼もまた、自己観察に基づく「男とは、こういうものだ」という「男理解」で満足して、あとはもっぱら「女」という「他者」に強く惹かれたからこそ、当然のごとく「わからない」ということになってしまっただけなのではないか。
そもそも、「他者」とは、「男女を問わないもの」ではなかったのか? 一一とは、そういう話なのである。
したがって、本作にゴダールの「ミソジニー」を見るのは、多くの場合、女性の側の「ミサンドリー(男性嫌悪)」に発する、同レベルに一面的な「男理解」でしかないと言えるだろう。
要は、男であれ女であれ、両者ともに、同性や異性を問わない「他者(理解し得ないもの)」を、理解できるものだという「愚かな思い込み」の中で、無理にでも「理解したつもりになる」から、それは「無理のある解釈」となって、異性の「自認」からすれば、「ミソジニー」であったり「ミサンドリー」であったりと、「不十分な認識のように思えるだけ」なのではないのか。
もともと「わかるわけもないもの」を「わかったつもりになった」とすれば、それは、多かれ少なかれ「誤解」でしかあり得ないのである。
ただし、人は、男女を問わず、「他者」を理解しようとせずにはいられないように出来ている。
何となくであれ「わかっているつもり」にならなければ、「人間社会」の中で、つまり「他者」の中で生きていくことなど出来ないからだ。
例えば「道を歩いていたら、対面から歩いてきた人が、いきなり刃物で切り掛かってきたらどうしよう」などと心配していては、社会生活など営めない。
だからそこは、「そんな人は滅多にいないし、私がそんな目に遭うことはないだろう」と、他者に対する適度に粗雑で鈍感な「幻想」を抱けるように出来ている。だからこそ、人は、得体の知らぬ「他者」の中で、平気で生きていくこともできるのである(この、鈍感装置が故障すると、人は心を病む)。
だから、ゴダールの「ミソジニー」を否定しても、あまり意味はない。
彼は、ある程度は賢いし、女性が好きだからこそ「女は、わからない」と考え、それを表現してしまっているだけなのだ。
したがって私たちは、それが彼の「思想」の一部だと了解した上で、その「思想そのもの」の是非を検討しなければならない。
「誰の思想か」が問題なのではなく、「どのような思想なのか」ということが重要なのである。
そして、そのようにして「他者の思想」を検討するというのは、当然のことながら、その「外」に立って、そうした「他者の思想」を検討しているつもりになっている「私」、というものの「不確かさ」の検討であらねばならない。
私は、私自身を「客観的に見ることができない」のだから、「他者」のことなら「わかる」という「誤認=幻想」にこそ、「私自身の幻想」を触知する努力をしなければならないのである。
本作は、そんな「わからなさ」を伝えてくれる、いかにも天才の直観に満ちた作品なのだ。
(2024年9月24日)
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