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#小説
昼下がりの故障は、僕を修復させた。
しかしながら、僕の携帯がどうやらおかしいと気付いたのは画面をタッチしても反応しづらくなったからだった。僕が携帯に嫌われたのか、僕の存在が薄くなったのか。どちらにしても「のほほん」と生きようとしている僕に「のほほん」とはさせないこの事情は、到底好ましい状況ではなかった。
「『のほほん』としてんじゃねぇ」と、遠い日の部活で顧問の先生からおもいっきり怒られている友人を横目で見ながら、怒るには可愛い言葉
探せない過去最高に埋もれている日々へ
自作において、過去最高の作品というものに出会った人達は、一体どれくらいいるのだろうか。
私には、ハッキリとした過去最高の作品というものが存在する。厳密に言うと、その作品の記憶が無くなりかけていて文体や形も説明出来ない。だが、あの日の自分の頭の中で物語が勝手に浮かんだ感覚と、何を書いていても上手く行き着くという絶対的な自信と、それに準じた快感に襲われたのは、生まれて初めてのことであり、あれ以来味わ
薪ストーブのある家で、炎に挨拶をした。
海から程近い平野部の街には珍しく、近所でも目印になるような屋根に煙突が突き出た家がある。その家のリビングには煙突に繋がる薪ストーブがあった。河津桜は咲き終わり、春の主役がソメイヨシノに変わりつつある日。暖かくなるのをたまに忘れたりする季節のこの日は防寒着が必要なくらい寒かった。
訪問した友人の家に友人はいない。夜に訪問したのは、足を運ぶことを躊躇う気持ちがどこかに残っているからなのだろう。
薪
向田邦子からの菊池寛。「嫌ですよね」から考える「人」となり。
人は自分が思考するほど、人や自分の事など気にもしていない。
これはたぶん私の言葉だ。
私の言葉だろうが、それが何だろうが、誰も別に気にしていないだろう。だがそこに、第三者の目が入ると、心に生まれてくるのは、それを確かな物にしようとする自尊心や虚栄心だ。
人間は、厄介だ。
自己の完結で済まない承認欲求や、人との比較から本来しなくてよい筈の嫉妬をしたりする。
私は、自分の思考の裏側を考えるの
高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」の疾走に思いっきり声を掛けた。
読書を巡る旅の途中に、出会うべく出会うような、出会いの本があったりする。それは僕がそう思って生きているのだからそうなのだ。
自分の人生に彩りをつけるのは自分でありたい。noteにおいてそういう出会い方は初めてで、即読んだ。
noteは、どうやって僕の好みの記事を見つけてくれているのか。この記事にすぐに惹き込まれた。本当にありがたい。
それは、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」について海
一人の作家を通して、実際出会うまでに至る引力を知る。それが大江健三郎の凄さだ。
僕は大江健三郎が「大切なことを正面にもって来る」というのを小説のスタンスとして持っているのを大江健三郎のエッセイから知った。
大江健三郎は、僕の読書に於ける尤も核になる部分に潜んでいる。まだ数冊しか読んでいないのにだ。これを言い切れる僕は、大江健三郎を介してのSNS上でのその特性を活かした特別な出会いをある方達としている。
その方達が書くその文章には、大江健三郎の熱をそのまま帯びたような感触で
室生犀星の私小説は、改めて自分に向き合う時間をくれたみたいだ。
室生犀星の全集より、私小説にあたる三作を読了した。
「幼年時代」
「性に眼覺める頃」
「或る少女の死まで」
詩人でもある室生犀星が描く私小説に興味があったのか、自分でもどこに引っ掛かりがあったか忘れてしまっていたが、メモに室生犀星と書いてあったのだから何かに引っ掛かったのだろう。
しかし自分の動機などは、読む本に関係ない。ある種の出会いだと思っている。
少し前に、徳田秋声の「仮装人物」とい
谷崎潤一郎が好きである。それと同じくらい方言が好きである。
📚
谷崎潤一郎全集より
卍
日本に於けるクリップン事件 を読みました。
私は、関西弁を喋れない。
これは勉強すれば喋れるようになるのだろうか。
卍で操られる言語は、関西弁を喋れない人が本当に書いているのだろうか。
同性愛を告白する女性の話しで綴られていく男女4人の交差にタイトルの意味を感じる。
私が借りた全集には、谷崎潤一郎が、卍はモデルや種本はなく、上方言葉の甘美と流麗とに魅せら