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室生犀星の私小説は、改めて自分に向き合う時間をくれたみたいだ。

室生犀星の全集より、私小説にあたる三作を読了した。

「幼年時代」
「性に眼覺める頃」
「或る少女の死まで」

詩人でもある室生犀星が描く私小説に興味があったのか、自分でもどこに引っ掛かりがあったか忘れてしまっていたが、メモに室生犀星と書いてあったのだから何かに引っ掛かったのだろう。

しかし自分の動機などは、読む本に関係ない。ある種の出会いだと思っている。

少し前に、徳田秋声の「仮装人物」という、私小説というか、心境小説を読んでいた。

年の離れた若い女性との当時実際の紙面も賑わした恋愛事情を小説に詳しく物語として綴っているものだった。

私が、今まで読んで来た私小説とはこういう自分目線の内情すらさらけ出すような物だと思っていたし、情けなさや葛藤、醜さなどを露にするものだと思っていた。

私小説がなぜこんなにもあるのか。娯楽の少ない時代に人を楽しませる文学というものは、自分をネタにしながら深く人を思考させる大事なものだったと思う。そして、時代を越えて残るものはやはり訴えてくる。

他人はどうであれ、自分がここに残すのなら人から淘汰されようと真摯に向き合いたいと考える。

室生犀星の「幼年時代」が発表された頃の談話で室生犀星自身が、編集長の当時の言葉として文学者たちの評判を室生犀星に語った話を残している。

「徳田さんはまだ讀まんと云ってゐましたが、いや、芥川さんもまだ讀まんと云ってゐたが……みんなが讀まんといふから賴母しいのです。」

この談話を読んで、自分の感覚も間違いじゃなかったと思えた。この本の評判を聞いての讀まんだとしたらその嫉妬心はよくわかる。

ものすごく静かな小説でナイーブに感じる。これが詩人としての感覚から来るのかそもそも持ち合わせているのかわからないが、私小説なのか。小説なのかとわからなくなるのである。

とても美しさを感じる表現なのだ。たんたんと奥深い。

おそらく、当時の時代になかった私小説、表現だったのだと思う。フィクションとノンフィクションの間みたいに虚構と現実が交錯している。前提として現実なのだろうけど。

「単純過ぎる」という批評も受けていたらしいが、それは他の文学者のある種の嫉妬であったのではないかと思うが、そう表現することで興味を引き立てていたのかもしれない。私は今読めてよかった。

目ははや湿ってゐた。生一本な娘らしい涙をためた美しい目は、私の感じ易い心を惹いた。そして女は涙をためたりする時に、へいぜいより濃い美しさをもつものだといふ事を感じた。

性に眼覺める頃より

自分ではない、死の淵にいる好きな男性がいる女性から相談を受けた主人公の心境である。

決して自分に向けられる事のない、女性の美しさをものすごくキレイに表現していてドキドキした。

わかるよぉ。わかっちゃうよこの美しさ。

私の人生も、片想いの果てに想い寄せる人より相談されるタイプなのを思い出した。

恋する女性はキレイと昔から言われるが、それを体感として味わうのは、その本人に恋をされていない他の男性だと思っている。

この美しさの奥にある男の嫉妬心が、余計に引き立たせる美。

いやぁ、とても好きな表現です。引き込まれる。

いつか、こういう風に女性の美しさを描いてみたいものである。

なんのはなしですか

ただの私が女性を好きだってはなしです。

三作目の「或る少女の死まで」は、もう小説としか思えないほど自由に表現していて、書きたいように書けてるのだろうなぁ。とその表現の美しさに読む手が止まらなかった。

何よりその少女の事を室生犀星が本当に大事に接していて人生の一部分として残してくれていたことに感謝して読んで良かったと思った。

この頃よく考える。あと何人と出会い、何人と心通わすまで接することが出来るだろうか。

自分がそれを欲しなくなる時が近付いている気がする。人に対する好奇心が億劫になってきて、決められた人のみとの関係が熟成していくのも楽しいとは思うが、段々独りよがりになり周りの話しを聞けなくなることは避けたい。

自分の好奇心を遠ざけるべきではない。作品として残るような人生ではないが、確実に生は終わるということを認識して日々生きたい。

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