周りの目を気にしたらやりたいことが皆無になって心も汚くなった。
※多分「で、何の話?」ってなるので暇な方のみお付き合いください。
母親はくそだった。
父親もくそだった。
死ねと思ってた。
国語の作文で「尊敬する人」を書く時間。
大変困った。
そんなんおらん。
アニソン歌手を書いてた気がする。
特に母親はめっちゃうざくて
ゴミ箱に捨てたかった。
まじもんのモンスターだった。
早く一人暮らしがしたかった。
母は学校の先生だったから
私が「ねえ、知ってる?」って小学校で知りえた
情報を色々話しても
「当たり前じゃん」と当たり前のように返ってきて
それがつまらなくて母親に何も話さなくなっていった。
でも母は過干渉だから
面倒見は良かった。
だがしかし、偉そうな態度には腹が立った。
母はしつけが厳しい人だった。
寄り道して帰ってきたり
友達の真似して木登りしたり
友達の家のおもちゃをもらってきたりすると
決まって怒られた。
小4の時初めて携帯電話を手にした時も
友達とメールして怒られた。
父親?はただのATMだった。
両親にいい思い出がない。
そんな私も26歳になってしまって
気付いたら子供がいてもおかしくない年齢に。
みんなの顔色を窺って
怒られるから言うとおりにして。
そしたら社会人になって
精神科医に通ってる自分。
私に限らず、社会人になって
精神をぶっこわす人って学生の頃
いい子ちゃんだった人が
多いと思う。
学生の頃からさぼるというか
力の抜き方を覚えていた人は
なんだかんだ大人社会でもやっていけている。
(※偏見)
いい子ちゃんは世の中と
上手くすり合わせて妥協して
何とか今日まで生きてきている。
で、私は妥協して、しまくって、
休職中に「やりたいことやっていいよ」
と言われても何も選択できなかった。
ここまできて今更
やりたいことをやって、と言われても
虫が良すぎる。
私は周りの大人に最初こそ夢を応援してもらっていたのに
いつからか夢を応援してもらえなくなった。
そりゃ、やりたいこと迷子になる。
※話飛ぶので付いてきて
保育園の頃周りの女子の将来の夢は
お花屋さんとケーキ屋さんとプリキュアで溢れてた。
でもお花屋さん駅前にしかないし
ケーキ屋さん徒歩圏内にないし
プリキュアどこにおるん。
きっとみんな何回かに分けて
諦める出来事や誰かからかけられた
とどめの鋭い言葉があったんだと思う。
小学校に上がって文字が読めるようになると
アンパンマンとかプリキュアを見ていた時間が
ちゃおとかなかよしを読む時間になるので
漫画家やモデル、アイドルになりたいと
だんだん現実味を帯びて、でもまだキラキラとした
姿を追いかけてる。
(私は月島きらりちゃんとキュアレモネードになりたかった)
(ナージャは国外プリンセスなのでさすがに諦めた)
でもだんだん学校で「将来の夢」を貼り出したり
作文を書かされるようになると
まあ小学生ながら羞恥心というものも芽生えるので
流石になりたい職業に月島きらりと書くことはなく
自分のいくつか持ってる手札の中から現実的なものを絞って
将来の夢と聞かれたらこいつを出す!という
鉄板文句を作る。
定番文句として私は「パティシエ」を準備してた。
バレンタインやハロウィンにお菓子を作っては
学校で隠れてみんなに渡すのが好きだったし
家でも色々作るのが好きだった。
思えばこのころから「食」について興味があったけど
それをどう自分の夢として紐づければよいのか
分からなくて、その時楽しかったお菓子作りを
職業にするしか回答方法がなかったんだと思う。
だから料理の習い事をしたいと母に懇願したときもあった。
でも小学生の習い事の定番に料理教室なんてない。
ピアノ水泳英語ダンス毛筆
ここら辺。鉄板。
当然料理教室なんて今後役に立つのかも分からないし却下。
「大きくなったらパティシエになるのね^^」
って喜んでたのがいつの間にか怒られるようになった。
これ、私の「食」への夢中にひびが入った1回目。
次、大学受験。
小中高との義務教育の間に
自分の将来の夢が世の中の鉄板ものだったら
めちゃくちゃ悔いなき選択が出来ていたんだろうなと思う。
先生とか特にそう。
学校の先生になっている人が
近くにいるからかなり先をイメージしやすいし
進路相談で拒否されることはまずない。
相手が先生だからね。
医者とか弁護士とか。
そういうものだったら受験もしやすいというか
世の中の高校→大学の道を順調に進みやすいと思う。
私はその分かりいやすい答えに高校生の頃出会えなかった。
何か「食」に興味があって
そういう学問とか学部が主流だったらよかったけど
食べる文化についてになると家政学部になって文系に分類されるし
栄養学部になると理系になる。
それだけじゃない。
高校で文理選択を迫られる時の理系って
物理数ⅲを必要とするゴリゴリの理系。
後に大学で栄養学を学んだから後付けだけど
栄養学って物理もいらんし数ⅲもいらん。
で文型かと言われると世界史もいらん。
それだけ義務教育に組み込まれていない分野であって…
行ってしまえば生物や化学を必要とするけど
何が言いたいかって、
誰もレールを敷いてくれなかった。
レールの敷かれた人生はそりゃ嫌だけど
そうじゃない方の進学方法の調べ方が女子高生に分かる訳がない。
自分でそっかそっかと調べていくしかなかったし
食べ物について大学で勉強したいだけなのに
家庭科の先生になる家政科か
料理の技術を磨く専門学校か
栄養学を学ぶ栄養系の道か
農業を学ぶ農業系の道か
しか選べないんだろう。と思った。
そうじゃなくて、もっと「食べ物」という
存在について学びたいだけなのに。
上手く言えなかった。
だから私はせめて自分の楽しめる選択をしようと
好きだったお菓子作りをしたいと思って
とりあえず製菓学校のオープンキャンパスにいきまくって
あと、親を安心させるために栄養学部がある大学にも
オープンキャンパスにいって
その上で製菓学校に行きたいと親に懇願した。
その時にきつく反対された。
なんて言われたか覚えてないけどめちゃくちゃ号泣したのを覚えてる。
誰も方向を定めてくれなかったから
自分の"楽しい"を優先できる選択をしたかっただけなのに
それも否定されて。
じゃあどうしろって言うんだよって悔しくて泣いた気がする。
結局、私は高3の夏に大学受験することを決意。
大学受験がち勢の人だったら分かると思うけど
高3の夏から受験勉強ってマジでもう手遅れ。
高3の夏休み前まで金を積めば入れる製菓学校行こうと思ってたから
模試とか適当に受けてたし、勉強もほどほどだった。
だからあと半年で勉強して取れるセンター試験の点数で
行ける大学なんてもう...。そんなになかった。
てか、栄養学部がある大学が少なすぎた。
そして親はと言うと
大学に行くことを決意した私を見て
親は安心していたように思う。
寧ろ全力サポートだった。
このサポートをなんで製菓学校に行きたいと言った
私には向けてくれなかったんだろうと
悲しくなった。
だからこの製菓学校への進学反対が
私にとっての「食」への興味を忘れさせる
第二の出来事だった。
そして就活してみんなとおんなじ
サラリーマンに。
気付いたら「食べ物について調べて触れていたい」
という夢とか夢中とかなんていうか
心の中の熱意的なものや、これが!私の好きなこと!と思える
気持ちへのアクセスの方法も分からなくなっていった。
要は、周りの言うとおりに本心を消して
歪な進み方の結果、虚無で働くOLが完成した。
のがわたし。
そんな感じで(主に)親に対して良い思い出が
無かったのだけど
休職中、帰省するときがあった。
きちんと働いていない私って
「なにやってんだ」とまた残念な思いにさせて
心配させてしまうんだろうな…
と思ってたのに
びっくり事実が出てきた。
「あんたは昔からいろいろやってみる子だったわ」
「自分から頭打って理解する子だった」
「お姉ちゃんと違って言うこと聞かない子だった」
「だから選択肢を増やせるように製菓学校行くのも反対したわ」
なんだそれ、そんなこと言ってなかったじゃん。
私の自由にしたいのを本当は
尊重してくれてたんだ。
私はずっと母が縛り付けてくる感覚が
なんか嫌でめちゃくちゃ嫌で
自由を求めて一人暮らしをしたのに
高校の時から私を自由にさせたかったんかい、
と思った。
さらによく話を聞くと
母の父、つまり私の祖父はかなり厳しかったよう。進学や教育に対してかなりかなりかなりビシバシだったよう。
だから母は私と姉をのびのびさせたかったらしい。自由を尊重させようとした育児をしたらしい。
なんか私の見てた母と
なんかなんかなんか
ちがう。
そういえば親は私が休職中自由に
あれやこれややってるのに対して
特に反対も何もしていなかった。
大人になったからかなあと
思ってたけどそうじゃなかったらしい。
親はずっと私が自由に色々やりたい子で
PDCAのDからやっちゃう子で
自分で転倒して学習する子
と言うことを分かっていて
だから私の選択肢を狭める専門学校や
職人気質の調理の道を進むのではなくて
大学というどうとでも転べる道を進めた
ということだった。
10数年親を目の敵にしてたのは
何だったんだ。
話しているつもりだったけど
話せていなかった。
休職中お世話になった
つながりの学校で学んだ
会話の仕方というかNVC(非暴力コミュニケーション)で
(O)●●ということがあって
(F)●●という気持ちになって
(N)●●というニーズが自分の中にはあって
(R)だからあなたには●●して欲しい
という組み立てが大切なのに
みんなFとNをすっ飛ばして会話をしているというのを学んだ。
まさに私と母の会話がこれだった。
母は私に自由な選択の道を残したいという
そんな気持ちがあったから私の進路に
あれやこれやと口出しをしていたのに
私は「大学にいきなさい」という部分だけを
受け取っていたからずっと自分の夢とか
やりたいことを否定されたと思い込んで進んできてしまった。
別に母に限らず世の中の人って大体こんな感じだと思う。
私も含め。つい言葉足らず。
NVCの基本を学びつつ人の話を聴いたり聴いてもらったりを
練習したおかげで、この半年で両親のことが
かなり好きになった。今では実家の抱える問題を
何とかしたいというのが今の私の行動のガソリンになってる。
冒頭の殺したい意欲がどっか行った。
これは私が大人になったから
という話ではないと思う。
現に私の姉は今でも母親が嫌いで縁を切りたいとまで
言いだしている。
でも私はそんな姉の言い分もNVCとかそういうので
たまに気持ちを整理してあげている。
おかげで私とは唯一LINEをしてくれている。
焚火の対話会をやっているまみーたの言葉を思い出す
「戦争の反対は対話」
本当にそうだと思った。
きちんと話すというか、言葉を整えるというか
観察(Observation)
感情(Feeling)
ニーズ(Need)
リクエスト(Request)
が揃えば、なあんだ、となることが多い気がする。
でも私は半年勉強しただけで間違っているかもなので
今度あるプチ体験会で私の救われたというか
なんかいろいろ気付かされた会話術を
のぞき見してみるのもおすすめです。
話がややこしくなるから
両親にフォーカスしてたけど
私は塾の先生も学校の先生も
祖父も祖母も大嫌いだった。
私の夢を笑うやつは
否定するやつは
嫌いだった。
でももしかしたら私がずっと夢を否定されていたと思ったのは
そうだけど実はそうじゃなくて
きっとみんな何か私のことを思って
ずっと意見を言ってくれていたのかもしれない。
OFNRのFNをすっ飛ばして。
もう今では聞きに行くことも出来ないけど。
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