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【雑記集】※いたって個人の感想です。

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雑記・随筆も、書くのが楽しいですね。いや、雑記や随筆こそ、書くのが一番楽しいかもしれません。 そしてこの誰に宛てているわけでもない文章が、漂流して、まったく見知らぬ(かもしれない…
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2022年9月の記事一覧

「幸運」とは「自分が愛するもの」の姿をして既にそこにあるのだ

「幸運」とは「自分が愛するもの」の姿をして既にそこにあるのだ

「愛しましょう」と促されても、
「愛してください」と頼まれても、
ましてや
「愛せ」なんて命令出されても、
こればっかりはどうにもならない。

それに従って
「愛しました」というのでは、
多分、それは
既に変質してしまって
もはや「愛」ではないと思う。

「愛」こそ、
自然発生的なものだろう。
且つ、
他人の意思ではなく、
自発的なものでなければならない。
――そうでなければ
「愛」ではなくなって

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「道徳」は人から押し付けられるものではない

「道徳」は人から押し付けられるものではない

「傷つけてはいけない」
「騙してはいけない」

我々はいつ、これらのことを覚えたのだろう。

少なくとも、「小学校の道徳の時間」では、なかったと思う。
――それ以前に、とっくにこれらのことは、身についていたのではないだろうか。

そもそも、「誰かに言い聞かせられたから」では、これらのことは身についてはいかないものだと思う。

つまりこれらのことは、人から「こうせねばならないよ」と言われたから、「言

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「器用で柔軟な人はあれこれ考えるまでもなく自然と上機嫌なのだろうな」と思う水曜日

「器用で柔軟な人はあれこれ考えるまでもなく自然と上機嫌なのだろうな」と思う水曜日

まあ、よくも毎日、我ながらnoteに書くことが思い浮かぶなあ、としみじみする。
そんな週の真ん中、水曜日である。
――なるべく即興というか、「その日書くことはその日考える」ように最近はしているのだが。

自分の記事の内容の傾向から鑑みるに(大抵の「毎日note」筆者の方々は、様々な方向性の内容で、ありとあらゆる趣向を凝らして、執筆されていることが多いのに対して)、私には「自分自身で省みて考えるべき

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楽観上等!-夢を「別モノ」にしないために-

楽観上等!-夢を「別モノ」にしないために-

こちらの記事の続きとして。

私は「夢をもつのは諦めましょう」と言いたいわけではないのである。

しいて言うなら、「どうせ夢を持つなら、悲観的にならず、楽観的に」あるいは「気楽に」ということを言いたかったのである。

「夢」は、必ずしも、「現実味を一向に帯びてこない」でも、別にいいではないか!ということである。
(そりゃあもちろん帯びてくればそれに越したことはないんだけど!!!)

それでも、「き

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自分「感覚」本位で-「理屈」が「勘」を殺す-

自分「感覚」本位で-「理屈」が「勘」を殺す-

もちろん、子供の頃は子供の頃なりの、「余計なこと」をしていたんだと思う。

が、大人になると、また違った意味での「余計」が増える気がする。

「人と比べては、余計なことまで気にしだす。」
「少しでも得しようと、余計なことまで考えだす。」

――うーん、まあ、子供の頃も、それはそれなりに、「友達と比較して」とか「少しでもラクしようとして」とかは、やっていたんだけれども。(笑)

とはいえ、その当時は

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『人生は二番目の夢だけが手に入る』とはよく言ったものだ(?)

『人生は二番目の夢だけが手に入る』とはよく言ったものだ(?)

とは、中島みゆきさんの曲の歌詞なのだが。

一見(80年代までは特に顕著にみられた、みゆきさんの歌詞特有の)「ひたすらペシミスティックな物言い」にも感じられそうであるが。

しかし「実はこれこそ、真理をついているのでは?」と、改めて思ったりする、今日このごろの私なのである。

それはどういうことかと言えば――。

「ハイ、一番欲しいものは、二番目に格下げしてみると?
――ほ~ら、この通り!手に入り

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「地獄に墜ちる」なんてことはない

「地獄に墜ちる」なんてことはない

いや、今日書こうと思っていたことって、大昔にも近いことを書いたような?と思い当ったので。

久しぶりにまずはこれをやってみます。
大昔の記事を振り返ってみるコーナー。

この記事をまずは転載します。

僕は、天国や地獄というものに対して、
何処かに「在るもの」というよりは、
個人個人で「感じるもの」というふうに捉えています。

つまり、地獄や天国は、この世にあるのだと思います。
ふりかえると、昨晩

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「身動きできる」ような未来がいいな(自分の場合は)

「身動きできる」ような未来がいいな(自分の場合は)

と、昨日書いたけれど。

かといって、「記憶喪失になりたいです」とかいうわけではもちろんない、――と、言いきれる自分は、そこそこ「幸せ寄り」の人生を送れてきたのではないだろうか。――さすがに「都合の悪い部分だけ編集でカット」みたいに、人の記憶ができるわけあるまいから。

これまでのことを「全部忘れる」「全部忘れない」どちらかしかとれないのだとしたら、私は、後者をやはりとりたいのである。――そう思え

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どうせ「怒る」ならそこに「誇り」を持つ

どうせ「怒る」ならそこに「誇り」を持つ

「後で思い出したくもない感情」は、なるべくなら減らしていきたい、という話である。

突然不意に、昔の「喜怒哀楽」が思い出されることが、私には時々ある。

「喜」と「楽」はいいとして。「哀」もまだ受け入れられるのだが。

「怒」だけは、何というか、処理に困る。――しかし、これが一番多い気もするのだよなあ。
多分、そこには、癒えていない部分もあって、自分の中で結局「未消化」になって残っていることもまた

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「やりたいこと」こそ「やるべきこと」-生物に心が備わっている理由-

「やりたいこと」こそ「やるべきこと」-生物に心が備わっている理由-

「やらされている感」満載の気遣いというのは、ただただ、「自然な感覚」の邪魔になる。――「そういう気遣い」というのは、割とエネルギーを食うし、自身の心も絶えず、人の心を窺いながら揺らされてしまうところもまたあるし。

また、そうなると、そこに神経を割いている分、別の場所に働かせるべき「感覚」が、これまた鈍くなる気もする。

しかし、これが「自然と発生した」つまり「自らの感覚の一部としての気遣いや心配

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「失敗」は「まだまだ変えてOK」のサインである

「失敗」は「まだまだ変えてOK」のサインである

自分自身の身体も、その健康状態も、常に変わっていく。

そして、自分を取り巻くもの――自分が存在する社会とか世間も、刻々と、変化をし続けている。(それはもう、私の予想などは、いつでも遥かに越えて。)

で、どちらについてもそれは、この先も延々と続いていくことだろう。

しかし。
一度固定した「自分のものの考え方」だけが、意識的にそうしない限り、案外、なかなか変えていけないところもあったりする。――

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夢と欲が止まらんのは「まだまだ成長期」という証

夢と欲が止まらんのは「まだまだ成長期」という証

ナニ?「まだまだ叶えたい」だと?――ならばまだまだ成長しろ!

と、言われている気もする。

いや、今現在、既に心身共に健康な状態を与えていただいているわけであるからして、(何よりありがたいことである。)ならば、「あとのことは自分の力でなんとかしろ!」と言われても仕方ないし、――そう、もし「神様みたいなもの」がいたとしたなら。
「お前、いくらでも、何とでも、自力でまだできるはずだろ?」と、そう言わ

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「上機嫌」は自分のために(そのほうがいい)

「上機嫌」は自分のために(そのほうがいい)

以下は、昨日の記事の最後に書いたことなのだが。

但しこれ、「自分の周囲にいる人の『ために』」となると、ちょっと違ってくる気がする。――それでは「顔色窺い」になってしまって、余計な所に力が入り、余計なものが混ざってくる気がするのだ。

最終的に上機嫌は、「演じるもの」ではない。――「周囲に気を遣って、上機嫌でいましょう」というのでは、「機嫌とは別物」になってしまう。

「自然とその人の内側から湧い

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「この世には自由しかない」-機嫌を保つ・立て直すには-

「この世には自由しかない」-機嫌を保つ・立て直すには-

自分の機嫌は自分で何とかするしかないではないか。

てか、誰かに自分の機嫌を何とかしてもらえるものだとしたら、怖いというか、それって「コントロールされている」ってことになりますよ?!っていうね。(笑)

ま、そういうことが「時々なら」あってもいいけれど、「自分の機嫌の良し悪しについて、完全に他人をアテにする」となると、やはりそれはさすがにヘンである。

なので、「どうすれば自分の機嫌がよくなるか」

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