見出し画像

「やりたいこと」こそ「やるべきこと」-生物に心が備わっている理由-

「やらされている感」満載の気遣いというのは、ただただ、「自然な感覚」の邪魔になる。――「そういう気遣い」というのは、割とエネルギーを食うし、自身の心も絶えず、人の心を窺いながら揺らされてしまうところもまたあるし。

また、そうなると、そこに神経を割いている分、別の場所に働かせるべき「感覚」が、これまた鈍くなる気もする。

しかし、これが「自然と発生した」つまり「自らの感覚の一部としての気遣いや心配り」であれば、どうだろう?――そこまで消耗しないのではないだろうか。


「気遣い」に限らず、人目を気にして「ねばならない」からやっていることって、だいたい無駄に消耗する。――あるいはそれも「無意識に」「機械的に」「条件反射的に」つまり「一種の癖のように」やっている場合も多いのだけれど。

それでも「やらなければならないようだが、でもこれって意味あるのかな?」とか、場合によっては「何でこんなことをしなければならないのだろう?」とまで、心のどこかで思っていることについては、「融通が利かなくなる」というか、その場その場での「柔軟な調節」等もなかなかしにくいと思うのだ。――つまり、自然と働くべき「勘」が、どうも働かなくなるというか。

いや、かくいう私も、元からの性格なのだろうが、「無意識」「機械的」「条件反射的」に、例で出した「無駄な気遣い」をしてしまうところが、多分にあるのだけれど。
「気遣い」や「心配り」こそ、「ねばならない」で動くものではなく、自然と「してあげたい」で動き出したほうが、自然に働く感覚がその場その場で存分に作用して、「節度」が保てて「無駄」がなくなるのだよなあ、というふうにも、最近は思っているのである。

「気遣い」に限らず、自分の行動は、最終的に、「したいからしている」に、なるべくならしたいものだ。
「どこか乗り気ではないもの」――「したくないけど、やむなくしていること」というのは、「マニュアル的」になって、「感覚的」ではなくなる分、「実はいらないのだよな」な動きもまた増える気もする。――「いらない」とはどこかで思いながら、マニュアル的に、そこに労力を費やし続けてしまうのだ。

「心からやりたいわけでもない」と、そう感じるのもまた、それはそれで重要なサインなので、無暗やたらに見逃したり抑え込むのも、そもそもおかしなことなのであろう。
――一度は考えてみる。そして、「いろいろ考えてみたら、それでも、やっぱりやっておきたい」と思うのなら、思い直して心を入れて、何事も「やりたいからやっているのだ」でやったらいいとも思うし。――そうすれば、「無駄な動き」も、きっと減っていくだろう。

自分を動かすのは、常に自分でありたい。
そのために、生物には「心」が備わっているのだと思うので。

自分の動きなのに、どこか「他人事」みたいになっていること――「心ここにあらず」の、ウダウダ・ドンヨリした「単純作業」に費やす時間は、なるべくこの先、減らしていきたいのである。