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「器用で柔軟な人はあれこれ考えるまでもなく自然と上機嫌なのだろうな」と思う水曜日
まあ、よくも毎日、我ながらnoteに書くことが思い浮かぶなあ、としみじみする。
そんな週の真ん中、水曜日である。
――なるべく即興というか、「その日書くことはその日考える」ように最近はしているのだが。
自分の記事の内容の傾向から鑑みるに(大抵の「毎日note」筆者の方々は、様々な方向性の内容で、ありとあらゆる趣向を凝らして、執筆されていることが多いのに対して)、私には「自分自身で省みて考えるべきお題」がたくさんある、ということなのか。
――これって、本来はあんまり目出度いことでもないのだよなあ。(笑)
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たとえば、こういった文章というものを、「まるっきり書いていない自分」というものが、今更想像つかない。
――書いていなければ、どうなってしまっていただろう?自分、という気すらする。
つまり「自らを省みて書くということが、これまでの自分を持ちこたえさせ、今の自分を支えている」というところは、多分にある気がする。
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以前にも記事にしたためたことであるが、「書いているうちに(書き出した後で)書きたいことに気づく」みたいなことも実は多い。
つまり、「書かなかったら、(無意識下には存在していただろうが、)意識上にそれは上がってこなかっただろう」ということが結構ある、ということだ。
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私は、「書くことで、自分自身が救われている」と、感じている。
そして、こうして毎日何かしらを書ける、「気力」とか、「時間の余裕」とかが、うまいこと残されているこの「現況」を、あらためてしみじ~み、つくづ~く、ありがたいと感じている。
――いや、これ、例えば転職でもして、職場に拘束されている時間が今以上に更に長時間になったりしたら、多分こうはいかなくなるだろうしなあ。
私が今の勤め先を(そんなに待遇が良いわけでもないのに、笑)長らく「変えてみようかな?」としない大きな理由の一つは、ここにあるかもしれない。(きっと、職場環境が変わると、またバタバタ落ち着きない日々に代わってもしまうので、こんなふうに毎日一定時間を確保して、ものを書くなんてできなくなるだろうことは、想像に難くない。これまでの経験からして。)
「日々書けることのありがたみ」を、こんなにしみじみともつくづくとも感じている私――であるはずなのだが。
しかし、毎日書いていると、「毎日書けている」というこの幸運を、いつの間にか、「通常」「当たり前」と感じてしまって、幸運と思わなくなったりもして。
――やっぱり自分ってダメよね~、と思う。(笑)
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そして。
「自分のために書いている」という、これはそのままその通りなのだが。
そんな文章を「どなたかが読んでくださる」という、この現況の、なんとありがたいことよ!
――本当~~~に、心より、御礼申し上げます!!――
――いつも、ありがとうございます!!!――
いや、やはり、「向こう側に誰かはいる」「いや、誰もいない」というこの「差」は、文章のみならず、何か「ものをつくり出す」ことをする上では、大きいものである。
――「自分のため」のはずなのに、でも「向こう側で誰か一人くらいは見ていて欲しい、聞いていて欲しい」という。
――この贅沢者!(笑)
重ね重ね、読んでくださる皆様、ありがとうございます。
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(タイトルに戻るが。)
それにしても、毎日「お題」が何かしら思い浮かぶほどに、いつからこんなに、「生きづらさ」を、自分は抱えるようになったのだろうか?
――幼少の頃には、幼少の頃なりの「悩み」はあったと思うのだが、でも明らかに、こういう面持ちの「生きづらい」ではなかった気がする。
「欲」を持ち始めた頃から?
「算段」をし始めた頃から?
――そうだなあ、幼少期には、たとえば「この人生そのもの」を、「どうにかしよう」「どうにかしたい」「どうにかせねば」なんて考えることは、確かになかったよなあ。
――多分、違いはそこなんだろうなあ。
「どうにでもなれ」とすら、思っていなかった。
「人生を(現実的に)自力で操作しどうこうしてやろう、(リアルに)そうできるかもしれない」という「意識」や「感覚」が、なかったんだろうなあ。
――幼少の頃の自分は、「そこにある今」を、とにかくその時にできる範囲で、まずなるべく楽しく、まずなるべく気の向くままに、という感じだった気がする。
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その頃に、今の自分を、戻してみたいような気持がある。
(そう、これはいつも言う通りの「個人的意向」の話なので、必ずしもすべての人に「こうするほうがいい」と勧めようとはしていません。)
――さて?
はたして、戻れるものだろうか??
しばらくいろいろ試してみようと思っている。
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