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「地獄に墜ちる」なんてことはない

いや、今日書こうと思っていたことって、大昔にも近いことを書いたような?と思い当ったので。

久しぶりにまずはこれをやってみます。
大昔の記事を振り返ってみるコーナー。

この記事をまずは転載します。


僕は、天国や地獄というものに対して、
何処かに「在るもの」というよりは、
個人個人で「感じるもの」というふうに捉えています。

つまり、地獄や天国は、この世にあるのだと思います。
ふりかえると、昨晩は天国だったりするし、
とある日常の角をふと曲がると、そこは地獄の一丁目、だったりする。

「鬼」だの「悪魔」だのは、人の頭の中から生まれた産物だと考えています。
(繰り返しになりますが、これは一個人的意見です。
他の方々が何を信じていても、もちろんいい筈です。
信じるものが皆同じ、なんて方がむしろおかしいと思うので。
他の方々が信じるものについて、「それは違う」と断ずる行為を、
僕はあまりしたいと思っていません。)

以前に植物のことについてつらつらと述べた所を読み返していて、ふと思いました。
植物や動物に対して、
「鬼のような」とか、「悪魔のような」なんて言い方を当てはめる事は、
まずあり得ませんよね。

言い換えれば、
人間だけが、鬼のようにもなり、悪魔のようにもなる、ともまたいえると思います。

私は、鬼とか悪魔は結局、この現世で、人間自身が化けてしまったものだと思っています。
常に人の中にあり、別の所にいる訳ではないと思うのです。

人に傷つけられる事は、
どんな理由をつけたって嫌な事だし、悲しい事ですが、
ここが地獄の一丁目であれば、なかなか避けて通れないところだったかもしれません。

ただし、この地獄は、所詮、私たちと同じ、人間の支配下にあります。
自分の心が感じている世界の中にある。
自然界のあらゆる事に比べれば、まだコントロールできる可能性が十分にある。

ならば、人に傷つけられる事を、あまり恐れない方が、いいのかもしれません。

始めからこの世が地獄でもあるのだと思えば、
恐れても仕方ない気がします。
そういう事は、始めからありうる。
鬼や悪魔は、意外とライトに、そこかしこに居る。

地獄の隣に、天国もある。まるで当たりまえのように。
戦いがあって、その隣に、安らぎがある。

所詮、その人の中の鬼だし、で、その鬼は所詮この人だし。

恐れる事は、そんなにないって!

〈転載はここまで。〉


(さてここからは、肝心の、今日の追記部分である。――こっちの追記のほうがしっかりしていないと、しようがないですよね!笑)

そして、「この世に地獄が既にある」のなら、死んだ後に地獄に墜ちる心配は、無用なのである。

つまり、この世にいるうちに、うまくその地獄から、逃げ切るなり、避け切るなりできれば、――そして既に何らかの「苦しみ」に嵌まってしまっている場合には、そこから抜け出すなりできてしまえば、――それで地獄とは、金輪際おさらばできるというわけである。

――後で怖いことがあるかも?という考え方より、こっちのほうが、良くありません?
(コンニチの自分は、こういう考えにまで及んでしまったのか!――楽天的にも程がある!笑)

あるいは、「それでは平然と罪を犯して償わないアイツらは、一体いつ裁かれるのだ? せめて死んだ後に痛い目にあわせたいから、地獄はやっぱり必要ではないのか?」と考える方もいらっしゃるだろうか。

しかし、私はこう思うんです。
ある意味、罪を犯している「そいつら」は、既に誰かにとっての鬼だったり悪魔だったりする時点で、「(この世の)地獄の住民」なんです。――そう、せっかくこの世にいるのに、既に地獄にいるっていうね。

そう考えると、「死んでから堕ちるほうの地獄」とは、やっぱり空想なのではないかなあ、と、(私は個人的に)思われてならないです。(思っておきたいです。)


せっかく清らかで美しい楽園が、この地上にだって、――つまり天国までいかずともこの現世にも、いくらでもあるというのに、「そいつら」はせいぜい、自分の頭の中の「お花畑」くらいしか、感じることはできないんじゃないかな?
――例えば平気で人を陥れたり騙したりしている連中の濁り切った精神で、「本当の」「正真正銘の」清らかなものなんて、捉えることなんかできっこない、と、私は思うんです。

目に映っていたって、「見ている」ことにはならないわけです。
「心がとらえる」からこそ、はじめて「見えている」になるんだと思うんです、すべてのものが。

で、その心が汚れ切って腐り切った人間と、そうでない人間とが、同じものを見て、「同じに見えている、捉えられている」とは、私にはやはりどうしても思えない(思いたくない)んですよね。

ま、早い話が、「そいつら」――(地獄にいるほうの)餓鬼とか、(ヒトなのに)畜生とかは、自分で気づいて抜け出さない限り、一生その腐り切った汚れた世界を現世に居ながら這いずり回って生きていくんでしょうから。
――で、そこに嵌まっている連中はまず、自分で気づかなければそこから抜け出すことはできないと思うので、――つまり我々にはどうしてやることもそもそもできませんから、――我々は、そこにはなるべく近づかずに、運悪く出くわした時でもそいつらに対峙してやることすら不要だし、そこからは逃げるようにすれば、いいのだと思います。


そしてまた、自分の頭の中や心の中にも、「鬼」とか「悪魔」がいると、なかなか、この世のホンモノの「清らかで美しいもの」と、出会えなくなりそうだから。

そういう自分自身の「濁り」は、とにかくまず、自分自身の力で、一掃してしまいたい。

ここからは、なるべく、頭の中とか心の中を、「透明な水」に戻していきたい。
そういう目と心で、「せっかくの(時間的には限りある)この世」を、私はとらえていきたい。

――てなことを思う、今日このごろの自分なのであります。