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「この世には自由しかない」-機嫌を保つ・立て直すには-

自分の機嫌は自分で何とかするしかないではないか。

てか、誰かに自分の機嫌を何とかしてもらえるものだとしたら、怖いというか、それって「コントロールされている」ってことになりますよ?!っていうね。(笑)

ま、そういうことが「時々なら」あってもいいけれど、「自分の機嫌の良し悪しについて、完全に他人をアテにする」となると、やはりそれはさすがにヘンである。

なので、「どうすれば自分の機嫌がよくなるか」「機嫌が悪くなってしまった場合でも、どういう考え方でいれば、自分の機嫌はうまいこと収まっていくのか」というその「ノウハウ」については、自分で編み出しておくに越したことはないのである。

――と、エラそうに書き出したものの。

それが「なかなかどうして難しいこと」であるのは、私だって百も承知だ。

さて、どうしたものだろう?
と、それでも自分なりに常々、考えに考え続けている、というのが、私の現状ではあるが。――そんな「私なりにここまででどう考えるようになったか」を、「自分用のメモ書き」を大いに兼ねて、ここからは書き出してみようかと思う。

まず、第一に。

・この世には、(程度は様々だが)「悪人」「性根の腐った奴」は、確実に存在する。それらを(自分の目の前からだけですら)排除することは、事実上不可能なようである。
・頑張ったことが頑張った分だけ、「必ず」評価される、つまり「必ず」見返りがあるのは、学生時代のお勉強までである。――時々、「全力をかけて頑張った」の戻りが「ゼロ」ということもある。――ならば、逆もあるはず、なのかな?――ん?あんまりそれには気づかないけど。(笑)

等々、つまりまとめると、

この世の半分は、理不尽でできている。

という「事実」を受け入れる、ということである。

どうも我々は、学生時分までに、「正しいことで100%この世界は満たされていないといけない」「そうあるべきだし、間違いは存在すべきではない」と、擦り込まれてきているところがあり。
――で。
「考え」として、それは正しくても、「現実世界はそうではない」ので、「認識」としては、それでは「不足」なのである。――そこには、「そう考えても、そういう間違いって、どうしたって存在しているものなんだよね」という「但し書き」を付け加えないといけないのである。

「どうにもならないことがある」。――その中に、ちゃっかり、「理不尽」も存在するし、「他人の悪意」も存在している、ということである。

しかし無論、「全部受け入れましょう」などと、私は言っているわけではない。
むしろ、「できるものなら、全部よけていきましょう、あるいは、かわしていきましょう」というところなのであるが。

そうしようとしてもどうしても、よけきれない、かわしきれないものについて、さて、どうしたものだろう??というところである。

というわけで、二つ目。

・自分の行動とは、結局すべて自分で選んでいるのだから、すべて自分で選んでいいのである。

これはどういうことかというと。

たとえば。
「人から無理矢理やらされていることもある」、とする。
でも、それは「無理矢理やらされる」ということを、自分で「選択している」側面も必ずあるはずなのである。――それは言うなれば、「後先考えず、そこから逃げ出す」という選択肢について、本当に、「どんな条件を揃えても、100%できないこと」と、言い切れるだろうか?ということである。

極端な話をしようと思う。
私自身が、例えば、「人を殺す」とか「法を犯して服役する羽目になる」とか、「マンションの15階から飛び降りる」とか、「できませんか?」と問われれば、普通に「できるわけないでしょ!」と答えるが、――でも、「本当に、100%不可能だと、言い切れるものなのですか?」と問われれば、「100%とは、言い切れない」というのが、真実なのではないかと思うのだ。

「ルールだから」「後始末が大変だから」「誰かを犠牲にすることになるから」「報復が怖いから」「人の目が気になるから」「人としてのプライドがあるから」等々。
その行動をとる「理由」は、様々、あるものだと思う。
でも、その理由もまた、「選びとっている」のは、最終的には自分なのである。

・まず、(現実は好きに選べなくても、その現実の中から)「自分で実はすべて選んでいるのだ」という、その「実感」を持とう。


「理不尽を割り切って受け入れる」というのも、一つの選択肢として実はある。(てか、割と気づかず自然とこれをやっている場合も、我々ってば案外多いと思う。)(が、あくまで「一つの選択肢としてある」と言っているだけであり、それを積極的に推奨はまったくしていませんが。)
で、そういうことを言うと、「そんなの間違ってます!」と怒り出す「外野」もまたいそうであるが。
ならば、その人は、その当事者に「成り代わって」何とかしてあげることができるのであろうか?というところである。
もちろん「連帯」「連携」して、「一緒に戦う」ことはできるが、それは「その人の身代わりになって」とは違うはずである。
つまり、「その人」には、「その人」しかなれないし、というか、なってはいけないのだ。

誰の感情も、行動も、「その人自身のもの」であるべきで、「自分で司るべきもの」なのである。――たとえ誰かに操縦される場合ですら、それは「意識的」でなければならないと思う。つまりその場合は、「私は誰かに操縦されることを選んでいる」という自認が必要だと思う。


長くなってきたので、要点をまとめる。

自分の機嫌を保つ、または立て直すには。

1,この世界というもの、現実というものについて、不正や理不尽といった負の存在も含めて、現状を正しく「認識」する

2,その上で、「必ず、最終的には全て自分で選んでいるのだ」という意識を持つ

「全部ぶっ壊す」のも自由、「戦いを挑む」のも自由、もちろん前述のとおり「逃げる」「よける」も自由。――つまり、「全部が自由」である。
「割り切って受け入れる」もまた、自由。――キツイことを言っているかもしれない、その認識は私にだってあるが、――それもまた「自分で選んでいる自由の一つ」なのである。

「現実は選べない」それは確かだ。
しかしそのかわりと言ってはなんだが。
「与えられた現実の中では、ありとあらゆる、すべてが自由」なのだ。
――なのに、不機嫌になる理由がどこにあるのだろう?
(と、思うことにしてみようではないか!)

と、いうよりも。
(できる範囲でなるべくなら)「上機嫌」でいるほうが、総じてやはり得だと思う。
――自分にとっても、そして、そんな自分の周囲にいる人々にとっても。

「上機嫌」でいられうほうに、自分の思考回路くらい、自分で組み立てていこうではないか。