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自分「感覚」本位で-「理屈」が「勘」を殺す-
もちろん、子供の頃は子供の頃なりの、「余計なこと」をしていたんだと思う。
が、大人になると、また違った意味での「余計」が増える気がする。
「人と比べては、余計なことまで気にしだす。」
「少しでも得しようと、余計なことまで考えだす。」
――うーん、まあ、子供の頃も、それはそれなりに、「友達と比較して」とか「少しでもラクしようとして」とかは、やっていたんだけれども。(笑)
とはいえ、その当時は「素直に」「自然に」、さっさと忘れたり、手離したり、諦めたり、疲れたらやめられたりしていたんだよなあ。
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そう、大人になると、「素直さ」「自分に正直になる」をどこか「悪いこと」みたいに思うことが増える。
この、「謎のこだわり」と「謎の罪悪感」とは、一体全体何なのだ?っていうね。(笑)
「何だかツラい気もする」→やめてみる、止まってみる
「何だか疲れてきたな」→休んでみる
ってこれだけのことを、「いやいやそれでもやるべきだ」って、(偶にはいいのだが)毎度毎度「突っぱねてきた」その理由は何?というところである。
身体や感覚は、割と正直だ。
だから、ちゃんとそのセンサーを働かせて、自分の思考回路にまで親切にメッセージをその度送るのだが、それなのにそれを「ワガママ」だなんて、自分で捉えだしたりしてしまってね。
――でも、これって「ワガママ」とは違うんだよなあ。
誰だよ?
こういう条件反射の「自罰的反応」や、問答無用の「自責的精神」を、いつの間にか、自分の思考回路に深く植え付けてくれたのは??
(……それは自分か?笑)
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「真面目にやるべきだから」?
「一生懸命でいなければ充実しない」?
――うーん、もちろんそう考える時もあってもいいけど、でも、「いつだって必ず」それだけが一番に大事なことだろうか?と最近の私は思うわけである。
たとえば。
「人より評価されたい」「人より褒められたい」(「真面目さ」は無意識下でここにこだわり過ぎている部分も多い気がする)とか「人より得したい」とか、そういう意識から、とりあえず試しに全力疾走し始めてみるまではいいとして。
でも、「あ、これはムリかも?」「違うんじゃない?これは」って、そういう場合は、割と身体や(理屈ではない)感覚のほうが先に気づくような気がする。
で、「一旦止まろう」あるいは「引き返そう」と、ちゃんと言ってくれることもある気がする……にもかかわらず。
大人になると、そこが「バカ」になるというか。
「ここで粘らないと人に勝てない」とか?
「人を出し抜いて今のうちに突っ走らないと先に行けない」とか?
「理屈」が何だか幅を利かせだすんだよなあ。――いや、「頭が先に思いつくだけの」これらは「理屈」ですらなく、「屁理屈」であることも多いと思う。
つまり「頭の中」が、「身体」や「感覚」を「服従」させようとして、「屁理屈」をこねているのではないか、ということだ。
「服従する・される」という関係性に、常日頃から浸り過ぎていると、自分自身の中でも「主従関係」を作りたがるようになるというか。
――「頭の中の言い分」「身体の言い分」「感覚の言い分」、それぞれ等しくうかがって「均衡」を試みるのが、本来は自然だと思うのだが、どうも「頭の中の言い分」の声ばかりがデカくなりがちな、これまでの自分だったのである。
そしてこの、「理屈」っぽい、「執念」やら「根性」やらという名のもとに、「無駄な気力」が残念なまでにみなぎってしまう現象は、いったい何なのだろう??――「一回落ち着けよ」と、今なら思うところであるのだが。
所詮「小賢しい計算」でしかないそれを――つまり、自分のオトナの頭の中の「目論見」であるとか「計画性」であるとかを――我々は「過信」している気もする。
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「自分本位で」というと、やはり「ワガママ」に聞こえてしまうのであろうか。
ならば、「自分の感覚本位で」というのは、どうであろう?
「更にもっと、自分の感覚に、素直に正直に」と、いうのが、このごろの自分のテーマである。――自分は多分、自分の人生を投げ出したりはしない、そこを信用して――そう、「自分の頭の中の理屈」は過信するくせに、「自分自身というもの」のほうは、どこか信用していなかったんだよな――自分の心のままに動いたって、そこまで堕落もしないし無軌道になったりもしない。(と、信じたいし、とりあえず今のところ信じてみますよ?笑)
そうしたほうが、長い目で見て「無駄がない」そんな気がしているからである。
――どうも、これまでの自分は、自身の心の「素直さ」「正直さ」に、耳を塞ぎ過ぎた気がしている。――自らの頭の中のみで繰り返す「目先の計算」ばかりを、「賢いやり方」「正しい段取り」なんて、思いこんで優先していたところがある。
それらを、時を経た今振り返ってみると。
「賢く立ち回ろう」「正しく完遂しよう」としてしたことの、その多くが、なんとなく「あれはひたすら余計だったんじゃ?」という気すらしてくるのである。
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