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「身動きできる」ような未来がいいな(自分の場合は)

でも、「過去に一切縛られない」というのは、記憶喪失にでもならない限り、難しい。――実感として、そう思う。

と、昨日書いたけれど。

かといって、「記憶喪失になりたいです」とかいうわけではもちろんない、――と、言いきれる自分は、そこそこ「幸せ寄り」の人生を送れてきたのではないだろうか。――さすがに「都合の悪い部分だけ編集でカット」みたいに、人の記憶ができるわけあるまいから。

これまでのことを「全部忘れる」「全部忘れない」どちらかしかとれないのだとしたら、私は、後者をやはりとりたいのである。――そう思えるだけで、これまでの自分、「既にめでたしめでたし」だと考えることにしてしまおう。(これも「きょうの上機嫌」のためである。笑)

で、次のお題目は。

「未来に縛られたいか?」問題である。

これまでの記憶やら知識やらの蓄積から、それを元に我々は「夢を見る」し「欲を持つ」わけである。――完全に記憶喪失で、頭の中に何もなかったら、「夢」や「欲」の材料も、なくなってしまうだろうし。

なるほど、「思い描く未来」は、ある意味、「過去の蓄積」の一分だったりもするのだよな。

「夢」も「欲」も、時間を先へ先へと進めていく「推進力」になるものであるからして、捨てたくはないのだけど。
(時間だけなら勝手に進んでいってくれるし、物理的身体もその経過に伴うが、心だけは「止まってしまう」ことがある。――とはいえまあ、そんな心ですら、止まりたいその意識とは裏腹に、それでもいずれは勝手に進み始めたりもするのが、「生物らしい」ところだとは思いますけれどもね。)
(話を戻して、)

が、しかし、「夢」も「欲」も、ある種の「記憶」「知識」という「過去の断片」の化身でもあるわけだから(と、するなら)、「これらが指し示している未来」にもまた、我々を「縛る」性質があるのではないかと思う。

――うーん、「未来」のことまで、「過去」に縛られてしまうのか??
そう考えるとちょっとなあ。

と、私も少々どこか二の足を踏んでしまうような感じがしてくる。


でも、未来と過去の大きな違いが一つあって。

過去と違って、未来はまだ「存在はしていない」わけである。

と、いうことは。

「過去」ではこれはできないけど、「未来」に限っては、――つまり「夢」と「欲」とが「求めるもの」ついては、これができるのか。

何ができるかって?

――それは、「なかったことにする」が、事実上できるのである!


未来は、夢や欲で、グイグイ縛ってもいい。(その分、推進力を強くできたりもする利点があるわけだし。)
と、同時に。
「やっぱきついな、これは」と思ったら、「なかったことにする」――パッとその「縛り」を、ゆるめるなり手離すなりしてもいいのである。――つまり、「自分がそうする」だけで、「そうなる」のである。

と、いうか。
(ここからは個人的「意向」の話なるが、)
「パッと手離せる」くらいまでの力加減の、夢と欲に収めておこうかな、という気持ちに、今、私はなっている。

そう、「きつくなったその時には手離せばいいんだよ」って予め思ってはいても、ギュウギュウに力の限り握りしめていると、そう簡単にパッと掌を空けることって、案外できなくなったりもするんだよなあ、と。(しみじみ経験則。笑)


「パッと手離そうと思えば手離せる」未来の、たとえば「夢」でも「欲」でも、「身動きはできる程度に」のゆるさくらいで、いいかなあ。
と、このごろ思っている自分なのである。

(繰り返しになりますが、これは個々の好き好きの話であって、特に誰かに勧めようとしていることでもないです。――未来に向かって一心不乱に進んでいる誰かの「推進力」に、横槍を入れるようなことはしたくないから。)
(だからあくまで今回のこれは「自分の場合は」の話に終始しております。)