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「上機嫌」は自分のために(そのほうがいい)

以下は、昨日の記事の最後に書いたことなのだが。

(できる範囲でなるべくなら)「上機嫌」でいるほうが、総じてやはり得だと思う。
――自分にとっても、そして、そんな自分の周囲にいる人々にとっても。

但しこれ、「自分の周囲にいる人の『ために』」となると、ちょっと違ってくる気がする。――それでは「顔色窺い」になってしまって、余計な所に力が入り、余計なものが混ざってくる気がするのだ。

最終的に上機嫌は、「演じるもの」ではない。――「周囲に気を遣って、上機嫌でいましょう」というのでは、「機嫌とは別物」になってしまう。

「自然とその人の内側から湧いてくるもの」、それこそが即ち「機嫌」だからである。

もちろん、「結果的に周囲の人にも良いことをもたらしました」になれば、それに越したことはない。――そしてこれは多分「結果的に」概ねそうなっていくものだとも思う。

「純粋な上機嫌」は、「純粋な上機嫌」を呼ぶだろうから。

しかし、「機嫌よくいなければ『ならない』」からの「気遣い」「顔色窺い」「遠慮」はそれぞれ、相手の更なる「気遣い」「顔色窺い」「遠慮」を「互いにしあう」という形で呼んでしまうし。
あるいは別の「そこにつけこむ誰かの何か」を、呼ぶことになりだちだ。

まず真っ先に目指すのは、「自分のための、『自分本位な』上機嫌」で、いいのではないかと私は思う。
――「私の上機嫌は、唯一、人の犠牲の上にしか成り立たないのだ!」なんて人は、(「0.1%も存在しない」とは言えないけれど、しかし)まあ、ほとんどいないと思うから。――皆が『自分本位』な上機嫌を打ち立てていくとしても、「人の不機嫌を呼んでも私は上機嫌なのだ!うれしい!」なんて人は、多分ごくごく稀だと思う。(と、私は信じたいです。笑)

そして、自分の機嫌の上げ方を、圧倒的によく知っているのは、やはり自分自身である。――「人それぞれの上機嫌」が集まって笑いあうことこそ、素敵なことだと思うのである。