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「道徳」は人から押し付けられるものではない


「傷つけてはいけない」
「騙してはいけない」

我々はいつ、これらのことを覚えたのだろう。

少なくとも、「小学校の道徳の時間」では、なかったと思う。
――それ以前に、とっくにこれらのことは、身についていたのではないだろうか。

そもそも、「誰かに言い聞かせられたから」では、これらのことは身についてはいかないものだと思う。

つまりこれらのことは、人から「こうせねばならないよ」と言われたから、「言いつけ」としてそれを守っている、というのでは、本来は成り立たない気がするのだ。


誰に言われずとも。

私はきっと、成長過程で、「人を傷つけるまい」「人を騙すまい」という考え方を、身につけていた、と、思う。(と、思いたい。)

何故そう思うのか。――別に自分の「生まれもっての人間性」を、買い被っているわけではない。

それは以下の二つの単純な理由からである。

まず、「自分がされたら嫌なことは、他人にはしない」というのは、自ずと身につく倫理であると思うということと。
――それは、「互いがそれを守る限り、人の中で暮らしていても、互いの平穏を守れる」と、いつしか自然と知る、ということでもある。

あとは、「他人に共感する能力」が、そもそもほとんどの人には備わっていると考えるからだ。――傷つけられたら痛いだろう、裏切られたら悲しいだろう、と例えば、自然と感じる、これはそういった能力のことを指す。


むしろ、他人からこれを、繰り返し繰り返し言い含められ続けたら、「自分の内側から」その考え方は、育たなくなるのではないかなあ、と、私は思う。

こういった「道徳」「道徳観」は、押し付けられるものでは本来なく、人が自発的に抱き、それを育ててこそのものだと、私は思うからである。


さて、道徳とはなんぞや。

どう‐とく〔ダウ‐〕【道徳】
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

小学館「デジタル大辞泉」より一義を抜粋

ほら、そう書いてあるではないか。

定義として「道徳」とは、「自発的」「内面的原理」で、「法律とは異なる」わけである。

……の、はずなんだけど。

「道徳感」を、まるで自分という存在の外付けの「法律」かのように捉えていることって、案外多くないだろうか?

「人からそう言われたから」
「周りの人がそうしているから」

――まあ、そういう視点も一部含まれてあってもいいのだけれど、「そればっかり」の「それ主流」では、それは「その人の道徳観」ではなくなってしまう気もするのだが、どうだろう?

道徳は、「マニュアル化」してはいけない。(それでは「規則」である。)
道徳は、血の通った「生き物」でなくてはいけない。
そして「育っていくもの」「変化もしていくもの」でなくてはならないと思う。
――いくつになっても、それは変わらない。

「他人にダメですか?と問う」ばかりで「自分に問う」あるいは「ダメなのではないか?」と「自分の道徳観を疑ってみる」ということがないと、「道徳観」も育ってはいかないと思う。

とはいえ。
「道徳」「道徳観」という言葉にすると、何だか堅苦しい感じになってしまっていけない。

これは、たとえば「人を傷つけていないか」「自分を傷つけていないか」「人を騙していないか」「自分を騙していないか」と、自分に問う作業である。

ヒントくらいなら、他人からも、問えばもらえるものかもしれないが。

最終的な正解は、他人の中にはないはずだ。

「道徳」とは、正解が、人の数だけあってもかまわないものだからだ。



そう考えると。

「人の言いつけを守る」という動機で行われることは、則ちそれは「道徳」とは違う。――しかし、例えば仕事においては、この「言いつけ」が幅を利かせすぎていて、「自発的に何が正しいか考察する」ということが、割と後回しにされていることも多い気が、私はしている。

その人は「正しい」と信じて、まるでロボットのように行ってくれているんだけど、「いやいや、ちょっと、もう少し俯瞰で見てから、もう一回考えてみてよ」と言いたくなることは、割とそこかしこに転がっている。

――正直、私も職場においては「面倒くさい」が先立つので(笑)、「仕事において船頭は二人要らない」の原理に基づき、とにかくまあその人が「司令塔」を担うのであれば、余計な事は横から挟まず、従うとしよう、そう、きっと最後までを考えて指示を出しているんだろうから――と思いきや、「そこまでは考えてない」みたいなことも多い。

――うーん、忙しくてテンパる(←あんまりこういう今どきの言葉を使いたくはないが、やっぱこの言い方がしっくりきたもので、笑)のはわかるけど、それは「正しい顔して正しくない」と思われるから、とっても始末に悪いデスYo!などとひと昔前の交換日記のような語尾でふざけながら伝えたいが、もはやどんな手を使っても、「その人の正しさ」の前には、無駄な抵抗なようである。

いや、思うのだが。

「その人自身の正しさ」=「その人の中での道徳」なら、その正しさを、「本当に正しいか」と検討し続けられる気がするのだが。
その人のそれは多分、「言いつけられた」正しさなのだ。
そういうのは、「おかしなこと」になっている場合にも、「言いつけを守る」が絶対であるから修正を利かせようとしないし、で、実際「どうもおかしなこと」になっているケースも多い気がする。

……という、まあ、この「個人的実体験」の例は(具体的に書けないので)わかりにくいが。

わかりやすいところでいくと、例えば「謎の校則」とかって、いまだに存在しているわけである。

例えば、頭髪について。
地毛の髪色が明るい場合は、黒色に染める、とか?
ツーブロック禁止、とか?
(え、だってこれ、ひと昔前なら「刈上げ」って呼ばれていたやつだよね?カタカナになるとダメになるの?みたいな。)

何だか傍で聞いていて
「?!……規則って言っても、それはいったい、正しいことなの??」
と思う。
――いや、誰か一人くらい「この規則はちょっと謎では……」って異論挟まないと、おかしくないですか?

その人の中に、「誰かに言われたから」ではない、自然に育てた「道徳観」があれば、「何が正しく何か間違っているか」「何が人を傷つけるのか」を、判断できるものだと思うんだけど??


と、いうわけで、今日のテーマは、自分で扱うには大きすぎて、スミマセン、ちょっと内容が散漫になってしまいました。
――つまり、広げ過ぎて、ちょっと長くなってきたので、ここまでにします。(笑)