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楽観上等!-夢を「別モノ」にしないために-

こちらの記事の続きとして。

私は「夢をもつのは諦めましょう」と言いたいわけではないのである。

しいて言うなら、「どうせ夢を持つなら、悲観的にならず、楽観的に」あるいは「気楽に」ということを言いたかったのである。


「夢」は、必ずしも、「現実味を一向に帯びてこない」でも、別にいいではないか!ということである。
(そりゃあもちろん帯びてくればそれに越したことはないんだけど!!!)

それでも、「きっと叶うに決まっている」とどこかで感じながら、心を弾ませる、そのこと自体が、「人が夢をみる」意味ともいえるし、その効用とも言えるのではないだろうか。
――「叶う」根拠は、それももちろんあったらあったに越したことはないが、なかったからと言って、それでも別にかまわないだろう、何か問題でも?ということである。

「延々と叶うあてもない夢を追いかける」としても、それで誰かに迷惑をかけているわけでなければ、自分の人生だもの、自分がそれで幸せになるなら、人様から誹りを受ける言われはないではないか。

で、ここで肝要なのは、「自分の夢が、自分の日々に、明るい光をもたらしているか」だと思う。

言い換えれば、「自分の手元の光をひたすら吸収してしまうような、まるで漆黒の闇みたいになっている夢はよろしくないのでは?」ということだ。
(でも、たまにありますよね、こういうの。――てか、これはかつての自分の話かな?笑)

「本人が耐え切れぬほどの重み」にまでなってしまったら、もしかすると、それは「夢」の役割や効用を、失いかけている気もしないでもないのだ。

(とはいえ、人の数だけ正解はあると思うから、この考えを人には強制など、もちろんしますまい。――「これが私の夢の見方なのだ!」と思う人にとっては、きっとそれが今のところの正解なのだとも思う。)

(しかし、)私の中では、「歯を食いしばるのはトレーニングまで」という掟(?)が作られたので――そう、それは、明確に「これはトレーニングなのだから」と認識できないこと以外は、歯を食いしばるほど力まない、それは「無駄な力み」だから、と感じたので――「夢を見る」ということについても、「延々と終わりのわからぬ苦しみ」(ちなみにトレーニングには「終わり」が必ずある)みたいに感じられて、楽しくなくなったら、あるいは笑えなくなったら、そこで「一旦終わりにしよう」と思っている。

「まだ叶わないからこそ、これから叶える楽しみが生まれているのだ」と思える夢の見方を、これからはしていきたい、と、私は思っている。

そして「叶わなくてつらいのだ」となったら、その時は、少し距離を置いてみる、というのも、また良い手なのだと思う。

そうしてしばらくすると、それが「本当に自分にとって望んでいること」なら、その「夢」は、元の明るさをもって、戻ってきてくれるかもしれない。

一度手離してみて、再び、夢自体に、「それを見始めた頃の輝き」が戻ってこない場合は、もしかすると、それはもはや「夢ではなくなってしまった別の何か」かもしれないとも思う。――それは「惰性」であったり、「執着」であったり、「現実逃避」であったり。――どんな「夢」も割とこれらのことと親和性が高い。つまり、これらに変質しやすいものだとも思う。

「もうこの重たいものを、持ち続けているのはツラいのだがなあ」
という気持ちが勝ってしまっていれば、それはもうその時点で、変質してしまっていて「夢」ではないのかもしれないなあ
、とも、判断できるのではないか、――というこれは「夢というもの」についての一種の「個人的解釈」であるが。

「叶うこともあれば、叶わないこともある」
それは当たり前のことだ。

でも、この「大前提」を忘れて、「絶対叶えなければならない」「叶わぬはずはない」「叶ってしかるべきなのに」と熱くなり過ぎる時、注意が必要だと私は思うのだ。


そこで「なぜ叶わぬのだ」と、頭をひねって試行錯誤するまではいいのだが、それを通り過ぎて「思い悩む」みたいになると、「夢を見る」という意味すら、薄まってしまうと思うからだ。

「何のために夢を見るか」
その答えは、
「叶えるため」では必ずしもなく、
「生きることを明るく楽しくするため」
と、これからの私は答えるのだと思う。