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『人生は二番目の夢だけが手に入る』とはよく言ったものだ(?)
人生は二番目の夢だけが手に入るものなのよ
とは、中島みゆきさんの曲の歌詞なのだが。
一見(80年代までは特に顕著にみられた、みゆきさんの歌詞特有の)「ひたすらペシミスティックな物言い」にも感じられそうであるが。
しかし「実はこれこそ、真理をついているのでは?」と、改めて思ったりする、今日このごろの私なのである。
それはどういうことかと言えば――。
「ハイ、一番欲しいものは、二番目に格下げしてみると?
――ほ~ら、この通り!手に入りますねっ!」
という話……なわけはあるまい。(笑)
「真理をついている」というのは、
「これは自動的にそうなりがちなものなのではないか」ということである。
たとえば。
何か、手に入れたい夢があったとする。
で、手に入れてさえしまえば、それはもはや「夢」ではなくなる。
しかし、その中には、願っても願っても、なかなか手に入らない「夢」もあったりする。
――そのまま、年月が経ち、それでもそれが叶わないままのものは、その「夢見る年月」だけが長くなっていく。
そして「それでもまだ諦めきれない!」というものだけが、そのまま延々と「夢」としてそこにあり続ける、ということになる。
(つまり、「途中で諦めることができた夢」は、そこから脱落していくわけである。)
――願い続けた年月の重みも加算されるだろうか。
そうなると自ずと、「一番強い夢」(だけど叶わないままの夢――叶えば「夢ではなくなる」わけだから)が、残ってしまう。
と、こういう「システム」により、前述の中島みゆきさんの歌詞のようなことが成立する「ようになっている」のではないかな?と。
(って言っても、もちろん、みゆきさんはそんな「仕組み」を「説明」したくてこの歌詞を書いたわけではないとも思いますが。笑)
私も振り返るに、「一番叶えたい夢は手に入らない」という、そんな感覚があったのだ。
でも、冷静に、よくよくよ~く、考えて見ると。
「既に手に入っているもの」も含めると、「一番の夢」であったそれは、必ずしも「一番」ではなかった気もしてくる。
と、いいますのも。
私にとって、既に手に入っているものも含めたその中での「最も欲しいもの」は、本来なら、
「健康」
「最低限の衣食住」
「平和な毎日」
「言論・身体の自由」
(だって、ここnoteとかも含めて、あれもこれも、自由に書きたいじゃないですか!笑)
の辺りなのかな?と思う。
今は手に入っているから「どうしても欲しい!」となっていないだけで。
これらが失われたら、なかなか辛い。
――そして、もし私が、生まれもってこれらを持ち得ていなかったならば、一番にこれらのことを望んでいたのではないだろうか。
でも、ありがたいことに、今のところ、(一個人的な)「健康」「衣食住」「平和」「言論・身体の自由」は確保できているので、そうなると、自分にまつわるそれは「夢」では、とりあえずはなくなる。
――が、たとえば、これらが自分から奪われたその時には、たぶん、真っ先に取り返そうとするだろうと思うし。
それがそうしようとも、どうしても簡単に叶わなくなった場合には、自分にとってこれらが、「一番目の夢」に、昇格するのではないかなあ??
(……なんて想像してみたけれど、そんなことは想像だけに留まりますように!というところでもありますが。)
そんなこんなで。
人というものは、自動的にもう、「人生は二番目の夢までが手に入る」ように、元からなっているのでないだろうか??
……。
――と、いうふうに考えたほうが、何だか気が楽になりません?
更には上機嫌でいられると思いません?
(という、今回はそういう話……だったのかな?!笑)