見出し画像

随筆(2022/12/26):自由と呪縛_8_FIN.呪いをかけずに、相手に何かをしてもらうよう、言葉を尽くした説得に全力を尽くす

8.呪いをかけずに、相手に何かをしてもらうよう、言葉を尽くした説得に全力を尽くす

8.1.今までの話のおさらい

(おさらいなので、この記事さえ読めばよいようにしてあります)

これまで、自由意志とその阻害である呪いの話をずっとしてきた。

***

自分にとっては、自由意志とは、まずは
「自分の思い通りやれること」
であり、それなしでは
「これをやったのは自分であり、他人に押し付けることはできない」
という行為に対する責任は芽生えて来ない。

もちろんあっても芽生えて来ないことはあるが、なかったら芽生えて来る余地は全くない。
それは余儀なくされた命令や規範の言いなりになっているだけであり、状況や体制が変わって自分が非難されそうなら、彼らは自分の言動の責任を無限に以前の状況や体制に押し付けるだろう。
『はだしのゲン』の町内会長が、戦前は厭戦的な主人公一家を非国民としていじめておいて、戦後は自分がさも平和の戦士だったかのように嘘八百を口にして、主人公に詰められるシーンがある。そういうことだ。

***

社会にとっては、自由意志とは、
「行為に対する責任のリソースであり、これによって言い逃れしない信頼できる者の比率を増やしていき、社会の治安安定や資源配分や機能追加を果たす」
ためのものでもあった。

逆に、社会にとっては、信頼ならない者が増えていくことは、自由意志を認める時の副作用であり、やむを得ないが、依然として望ましくない。
だから、いくつかの領域では自由意志を脅かしていく動機があるのだった。

たとえば、相手が病死したり餓死すると信頼できる取引や協働が出来ないのだから、相手の健康と生計についての自由裁量というものを、社会は実は相当軽く見ており、好き勝手に手を加えようとする。
リストカットする人や放蕩する人について、社会は自由意志をできるだけ認めたくないはずだ。

実はこれは、嘘を吐いたりする人や、精神疾患を持っていたりする人の自由意志を、社会が相当軽く見ているのと同じ理由になる。
すなわち、信頼できる取引や協働を本当に貫徹してくれるか、社会は疑っているのだ。
じゃあ自由意志を認めるメリットは少ない。

***

他者や社会にとっては、自分の自由意志を歓迎する場合と、歓迎しない場合がある。
後者の場合、他者や社会は、自分の中の恐怖や義務感や罪悪感や羞恥心などの不快や苦痛を伴う悪感情を引き起こし、それをもって自分の意志決定に影響を与えようとする。
「これをされたくないだろう。止めて欲しいだろう。じゃああれをやれ。そうしたら止まるんじゃないかな」
こうだ。
ある論者はこれを「ブラックメール」と呼ぶ。
そしてこれは、人を呪う方法、「呪術」ということの本質だ。

またこれは、実は、「悪感情で相手を操作する」暴力の一環である。
暴力にもいろいろなレベルがある。
最も狭義には、「恐怖をもたらして操作するための物理力の行使」がそれだ。
もう少し広いと、「恐怖をもたらして操作するための威嚇」も含む。
さらに広いと、上で言った「悪感情をもたらして人を呪う」行為全般がそうだ。
さらに広いと、「相手の現状認識を歪めるための情報操作」も含まれるだろう。

暴力とは呼べないが、「好感情を引き起こして操作して、相手がやりたくないことをさせるための取引」も、相手の自由意志を歪めるものだ。
嗜好品・向精神薬・娯楽・賭博・崇拝・恋愛などは、一般には快楽を伴う好感情をもたらす。
そして、これらを使って相手を操作して、金品や労役を得ようとしたら、それは自由意志を歪めることになる。
その一環として、
「発信者の非適応的な歪んだ認知を相手に共有させ、現状認識に悪影響を与える」
こともありうる。
これもある種の
「相手の認知を歪めるための情報操作」
だ。

(逆に、操作のために用いられていない悪感情や好感情を、自由意志の観点から「善い」だの「悪い」だのということは言えない、ということにも気を付けねばならない)

***

また、自由意志を超えた領域としての、他者との約束や社会の約束事の話もした。

社会で生きていくためには、自由意志と、約束や約束事とのすり合わせは、どうしても必要になっていく。

約束や約束事は、相手の「断る」自由意志を認めたものでなければならない。
そうでなければ、そんな約束は「自分がやったこと」ではなく「余儀なくされたもの」だから、無責任なものになるし、約束として守る動機もなくなる。
約束事でもここは同じ話になる。

逆に、自由意志は、約束や約束事を、何らかの形で自ら受け入れていくことで、初めて責任ある人間関係や社会生活が可能になっていく。

受容のプロセスは、しばしば自由意志に反するとされる、承服や服従のプロセスが使われる。
実は「承服や服従」が「自由意志に反する」というのは正しくなく、グラデーションが、そしてそれゆえに共通の部分が存在するし、その共通部分がすり合わせの際には非常に重要になってくる。
ここはふつう直感に反するし、だから見落とされるところだが、決定的に重要なポイントだ。

政治学的には、服従は

  • 恐怖による忍従

  • 情報操作による被操縦

  • 利益による欲従

  • 崇拝による盲従

  • 倫理的妥当性による信従

  • 賛成による賛従

がある。

上の二つは説明の必要はないだろう。威嚇や呪い、あるいは情報操作だから、広義の暴力によるものだ。これは正直受け入れがたいので、後で揉める元となる。避けねばならない。

真ん中の二つは、実はこれはしばしば本当に自由意志によるものだ。
だが、好感情による操作に対して極めて弱い。やはりそこは危うい。

下の二つは、約束事や約束を自由意志で受け入れた形になる。自分にとっても社会にとっても、ここが最も望ましい落としどころだろう。
逆に、服従のグラデーションの中で、ここまで来ているものまで、「自由意志に反する」から「悪い」というのも、だいぶおかしな話だ。
それでは、「自由意志と約束や約束事の妥協点を探る」という、明らかに価値もメリットもある話は、全部吹き飛んでしまう。

それは、ある。
ちゃんと見ていこう。
というのが、今日の、そして今回の一連の記事の最終パートになる。

8.2.相手の自由意志によって社会を受容してもらう以上、言葉を尽くした説得を怠れば怠るほどうまくいかなくなる

信従や賛従のためには、納得というプロセスは、決定的に重要となってくる。
これがあるから自由意志は「じゃあやってやろうじゃないか」と思うのだし、その意思決定は極めて強固で信頼できるものとなる。

だとしたら、自分が相手に納得してもらうには、どうすればよいのか。

もちろん「説得する」ということになる。

***

三つ、ポイントがある。

***

「どうすれば相手に伝わるか」
「伝わらないとしたら、相手のどこに抵触しているのか」
「あるいは、自分がどのような条件を満たしていないのか」
「ひょっとして今言うとダメなタイミングなのではないか」
そういうことを考えて、言葉と言い方と言うタイミングを選ぶ、ということが、どうしても必要になってくる。

これは、「配慮する」、ということの実践そのものである。

「配慮とは何だ?
綺麗な単語だな。
だが綺麗事はフワフワしていて夢物語のいんちきに見える。
全く実践能力のない綺麗事フワフワ夢物語いんちきカルトに取り込まれたくない。
じゃあ、分かりたくもねえや。そんなもん」
という人は膨大にいる(私だってそうだったし、何なら今でもそうだ)。

具体的な話になると、説得においての配慮とは、
「上のような基準軸に従って、うまくいっているかいっていないかをよく見て、そうしてよりうまく効果のあるようになる」
ということだ。
これは当然実践可能であり、実践して成功したあかつきには何一つフワフワした夢物語ではなくなる。

***

次に、「誠実である」、ということだ。
ここは細かく言うと二つあり、
「相手の現状認識を歪めるための、嘘を含む、情報操作をしない」
ということと、
「そもそも正確に把握し、明瞭に伝えるよう、言葉を選ぶ」
ということだ。
前者は言うまでもない。やったらそれは情報操作であり、相手の自由意志を歪めるものであることは、既に述べてきた。
後者はもうちょっと難しい話で、
「自分が正確に把握できる理解力と関連情報を持ち合わせているか」
「相手に言ったら、どういうところで相手が呑み込めなくなるかが分かっているか」
「どう言い直せば、相手が呑み込みやすいように伝えられるか」
そういう話になってくる。
これもやはり注意深く見て、努力して試行錯誤してやってみる、ということは避けられなくなってくる。
精進ということは、しなければならない。

***

最後に、「敬意」という話がある。

そもそも、
「相手に「配慮」したり「誠実」であったりする値打ちがない」
と思っているなら、配慮も誠実も成り立たない。
そりゃあそうだ。相手にそんなことをする気になれないんだから。

だが、そういう態度で説得ができる訳もない。

相手がいかに自分の価値観に合わなくとも、いったん
「ちゃんと配慮したり誠実であるようにすべき」
という姿勢を示すことは、どうしても必要になってくる。

この姿勢を示すことで、「ある種の敬意の顕れ」として効果がある。
内心どう思おうが、礼儀は尽くしている訳だからだ。

そして、
「説得の際は、そういう姿勢で、常に臨む」
というマインドセットから、説得の全てが始まるのだ。

8.3.そもそも相手が自分に配慮せず誠実でもなく敬意も示さなかったら?

さて。
そもそも相手が自分に配慮せず、誠実でもなく、敬意も示さなかったら?
簡単だ。そいつの言うことは聞けない。
当然、説得の上に立っているテーブルの様々な利益の果実は、そいつの手には一切入らなくなる。
これで話は終わりだ。

***

そして。
そういうやつは、説得でなく、広義の暴力に訴えて、説得のテーブルの利益の果実を奪おうとするだろう。

じゃあ、やることは二つしかない。

「その手のやり口で、本来手に入らない果実を入手しようとするお前に、やれる果実は何一つない」
と示し、実際に何一つくれてやらないこと。
これは、「断る」という、自由意志の大事な話だ。

そして、今の時代では成り立っている司法系上位暴力、たとえば警察や検察や弁護士や裁判所などに、そいつの対処を依頼することだ。
こちらは社会の側の話になる。

***

そんなわけで。
自由意志を、社会を、共にやっていきましょう。
いじょうです。

(終)

応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。