私の光文社新書

西田哲学の純粋経験の原体験について

西田哲学の純粋経験の原体験について

西田幾多郎の哲学は禅的体験がその基本にあることは間違いないとして、具体的にはどのような経験かは明かにしていないとかんがえられる。 何故ならその純粋経験とは意味のない、意識に現れる以前の経験だとすれば語ることは出来ないのである。 しかし西田幾多郎は過って経験したことの無いほどの確かで鮮明なものであったから、それを体系的に『善の研究』として発表したのである。 単に「あゝ」と言う間の意味のない経験がなぜ言い尽くせない程の言語を文節化出来るのかと思われるかもしれない。 それは

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真訳『猫の妙術』西田幾多郎の主客未分と剣禅哲一如:3

真訳『猫の妙術』西田幾多郎の主客未分と剣禅哲一如:3

虎毛の大猫が問う こんどは虎毛の大猫が堂々と出てきて言った。 私が思うには、武術は気合が大事である。 考えて見るに気力を練ることが重要になります。 それゆえ気力を蓄えることに長年訓練を怠らなかった。 その甲斐あって気力は天地を埋めつくす勢いで、敵の足の置き場も無く、やすやすと勝って前へ進むに工夫の必用もない。 泣き声はもちろん足音を感じると俊敏に鼠を追い込み、動きに遅れず対応してきた。 その動作ときたら考える前に体が働いている。 桁梁を走る鼠は睨み落としてとる。

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『猫の妙術』西田幾多郎の主客未分と剣禅哲一如:1

『猫の妙術』西田幾多郎の主客未分と剣禅哲一如:1

『猫の妙術』は剣術書で佚斎樗山作であり『不動智神妙録』に決して劣らない内容になっている。 題名は『猫の妙術』ではあっても日常生活はもちろんスポーツ、芸術、交渉、経営など全般に必要とされる能力である。 哲学的考察そこで妙術を学術的に究明するには西田幾多郎の主客未分との対比によって明らかにしたい。 純粋経験は心的現象の原因であることは西田幾多郎が『善の研究』で言うところである。 まず妙術のわざの原因として何が純粋経験であるか究明しなければならない。 さらに妙術が純粋経験

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『不動智神妙録』秘伝の神髄:11

『不動智神妙録』秘伝の神髄:11

不動智神妙録』秘伝の神髄:10の続きになります。 今回で最終回です、まとめになります、本文は難しいところは無いと思います。 そこで言い足りなかったことや、要点をまとめました。 経験が肝心ですが誰でも経験することは出来ません出来たら避けたいことです。 経験から言えば訓練することも考えている暇はありません。 沢庵禅師も言いっていたように絶体絶命な状況に置かれると注意は自然と極限状態におかれのですが、 絶対暴漢の顔を見てはいけません。 突然話が変わりますが、幼児に言葉

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純粋経験の心像の具体例

純粋経験の心像の具体例

西田幾多郎の『善の研究』の基本的な概念としては純粋経験と主客未分があります。 所が純粋経験も主客未分も具体的な事例に乏しく理論的構造的な枠組みも明確ではありません。 また純粋経験と思惟、意志との関係も良く解らないとか矛盾しているとか疑問に感じているようである。 西田幾多郎の純粋経験は感覚や知覚、表像、心像であっても「色を見、音を聞く刹那」といい意識にあがって明確に認識される以前の感覚をいう。 しかも純粋経験は行為の原因である。 今回は「心像」の具体例を考えてみる。

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『不動智神妙録』秘伝の神髄:10

『不動智神妙録』秘伝の神髄:10

『不動智神妙録』秘伝の神髄:9の続きになります。 北海道大学文学研究科紀要から引用する 「本心妄心。(妄心)といふ心は悪しき也。 本心は一所に留て、又全く身体に舒つまる物也。 妄心といふは何ぞ心に思ひそめて一所にかたまりたる心ぞ。 本心が一所に聚りてこりかたまりて妄心と成て有也。 如レ此なれば本心はうせ候故に所々の用が欠るなり。」 ここでは本心と妄心の違いを述べていて、妄心とは煩悩や迷いの心のことである。 それに引き換え本心とは心身一如、対立したり矛盾する考えが無く統

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『不動智神妙録』秘伝の神髄:9

放心とは言葉を使わず催眠をかける方法である、催眠誘導法の擬視法を使うのである。

『不動智神妙録』秘伝の神髄:9 放心とは言葉を使わず催眠をかける方法である、催眠誘導法の擬視法を使うのである。

『不動智神妙録』秘伝の神髄:8の続きになります。 北海道大学文学研究科紀要から引用する 「不見放心、心要放。不見放心と云は、孟子の云たる事なり。 はなれたる心を尋求て我身へ返へせといふ心也。 たとへば犬猫鶏もはなれて余所へ行ば尋て我家へ帰すに、 心は人の身の主なるを、悪しき道へ行て心が止るを、 何とて尋求て我身へかへさぬぞといふなり。」 「不見放心」とは今行っている事に注意を集中して取り組めということで、孟子の言葉である。 心ここに在らざれば、視れども見えないから気を

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純粋経験とは心理現象の原因である

純粋経験とは心理現象の原因である

なぜ純粋経験という人間の目に見えない判断できない不可視の存在を想定しなければならないのか。 存在しなければならない理由は人間心理と社会構造を解明する重要な概念である。 西田幾多郎が『善の研究』でその特徴を列挙しているのでその特徴との関連から明らかにしてみたい。 第一に感覚や知覚、感情が純粋経験の対象である。 第二に純粋経験が存在していてもその意識に何の意味も無い。 第三にその対象は瞬間的な感覚や知覚、感情では有っても意識の縁暈を含む存在である。 第四に純粋経験は全

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『不動智神妙録』秘伝の神髄:8

『不動智神妙録』秘伝の神髄:8

『不動智神妙録』秘伝の神髄:7の続きになります。 今回は目に見えるように小説風に表現して全体を知ってもらいたい。 実は夏目漱石がすでに見事に書いていたんだった。 しかしバラバラにしてあっちこっちに散らばっているため知る人ぞ知る状態なのです。 それを再構成するから人名は当然入れ替えてある。 想像も出来ないかも知れないがそれは『虞美人草』に書かれていたんだった。 前回「打人も無心、太刀も無心、我身も無心」のところを無視してきたところを漱石は次のように表現している。

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『不動智神妙録』秘伝の神髄:7

『不動智神妙録』秘伝の神髄:7

不動智神妙録』秘伝の神髄:6の続きになります。 今回が山場になるが、これまでの心の置き所の具体的な用法になる。 具体的な場面を想像する必要があり前回慈国が詩歌を詠んだところが重要になる。 慈国は自然の中で花紅葉を見て詩歌を詠んだが大覚禅師は命を取られんとする場面である。 北海道大学文学研究科紀要から引用する 「建長関山大覚禅師を大唐の乱にとらへてきらんとする時に、 太刀の下より大覚禅師の頒に云く、珍重大元三尺剣、電光影裏載春風と云頒を作りたれば、太刀を捨て手を合て拝

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