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西田哲学の純粋経験の原体験について

西田幾多郎の哲学は禅的体験がその基本にあることは間違いないとして、具体的にはどのような経験かは明かにしていないとかんがえられる。

何故ならその純粋経験とは意味のない、意識に現れる以前の経験だとすれば語ることは出来ないのである。

しかし西田幾多郎は過って経験したことの無いほどの確かで鮮明なものであったから、それを体系的に『善の研究』として発表したのである。

単に「あゝ」と言う間の意味のない経験がなぜ言い尽くせない程の言語を文節化出来るのかと思われるかもしれない。

それは東洋西洋を問わず真理を極めた偉人が多く居たにもかかわらず、それぞれ違った体系の哲学或いは思想を主張する理由を考えれば、その経験以前に何を経験し何を学んできたか、その内容が深く関係していることがわかるのである。

彼らは語らないのでは無く一生かけて語っているのである、それほど語り難い内容の体験なのである。

ただ不思議なことに、それまで矛盾に満ちたもんだいや、理解出来なかった疑問がたやすく解決することである。

だから彼らは突然多弁になり、おおくの言葉をのこしているのである。

宗教の中でも禅宗ほど言葉と対話を重要視する宗教は少ないのではないでしょうか。

不立文字という文字に拘って禅は言葉おろそかにしているという誤解与えているようですが、それは表面的な現象にすぎない。

そういった誤解を生むのは誤解されるのを覚悟のうえでいえば、文節とは虚構の原因である。

ただ純粋経験と隙間が無く統一されていればそれは真実である。

ところが「不立文字」という文字に拘って純粋経験無き文節は言葉の遊びであり妄想である。

というのは言葉の組み合わせに真の意味があるのでは無く、まず文節から始まり統合されて意味が生じるのである。

文節とは文節の文節だから永遠に続くことになり、何処までいっても収束せず統一されないからである。

現代の文明は多様化され細分化されて情報は収集しきれない程あって調べれば調べるほど迷路に迷い込み混乱するのが目に見えている。

そこでまず個人的な純粋経験に収束させる必要がある、だから『善の研究』で「完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、」という。(第三章 意志)

だから個人的な純粋経験に収束されない文節は妄想だと考えるのである。

また含蓄的な純粋経験の内容は過去の経験や知識を含んでいることは次の文で明らかである。

「普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ている物は現在の儘(まま)を見ているのではない、過去の経験の力に由りて説明的に見ているのである。」(第四章 知的直観)

このように純粋経験とは瞬間的な経験ではあっても含蓄的に過去現在未来を混沌的に含んでいて統一された経験である。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

青空文庫を参照引用しました。

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