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『中論』7:恐怖症を論理学とベン図で解明・運動ー2

人間の行動の原因と目的  我々人間の行動の原因と目的を分析すると過去から現在を経て未来に至るのであるが、その過程を龍樹は「〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れて〈現在去りつつあるもの〉(去時)も去らない。」と表現するのであるが、その表現は目的と原因が離れて(離反)いれば行動は起こらないと言っているのである。  行動の目的にはそれを行う理由があり、理由とは過去の成功した経験とか失敗した苦い体験から生まれた動機にもとずきそれを達成するために目標が立てられ実行する

    • 『中論』6:論理学とベン図で解明・運動ー1

      中論はなぜ難しいのか 『中論』は言うまでもなく「縁起」が主題でありその『中論』中村元著の一章は「原因(縁)の考察」で始まっているが第二章も「運動」と書かれているが「縁起」の諸法(仏教の基本的法則)である原因ーー行動ーー結果の考察であるが、表現は「去る、去らない」などと書かれているが原因、結果の別名であるから言葉にこだわって言葉で考えると煩悩の餌食にされ思考は消滅してしまうだろう。  何故煩悩の餌食にされ思考が消滅するかの理由は「心頭滅却すれば火もまた涼しいのか」で解説した

      • 『中論』5:中論の序

        『中論』の八不とは夜の夢の幻の理論であることが明らかになった。  夜の夢は脳科学では我々が夢を見ていても意識で知ることはないという。  何故ならば脳波で記録されていても本人には夢を見た記憶はない。  それでも時には夢を見ていることを知ることがある。  それは意識と無意識の中間にあるから中論という。  意識の常態においては夢は生じることはない(不生)。  夢は生まれないから消えることはない(不滅)。  常態においては夢はいつも見えるとは限らないから(不常)で

        • 『中論』4: 心頭滅却すれば火もまた涼しいのか

            『中論』中村元著の一章「原因(縁)の考察」  禅やヨガには集中力と同時に瞑想の訓練や修行が求められるのであるが、瞑想にもいろいろあってサマタ瞑想は一つのものに集中することで、止(サマタ)は思考を止めることであり、その意味や実体はどのようななものであるかは知られていないので先ず体験ををしていただくことにしたい。  集中力には外部からの影響を極力避けて静かな環境が必要だと考えられているが、学生が勉強するときには思考力を低下させる可能性はなきにしもあらないから、学生がラジ

        『中論』7:恐怖症を論理学とベン図で解明・運動ー2

          『中論』2:無分別智と言葉の魔術師

           『中論』の龍樹は言葉の魔術師であるが、その実態は言語の二元対立を超えた無分別智,非思量、無思量を自由自在に使いこなしていたことを『中論』の文の構造から明らかにしたい。  魔法使いは最初の出会いが大切で龍樹であれば最初の言葉で魔法をかけるのが魔法使いの魔法使いたるゆえんであるから、『中論』の最初の文に注目すべきであるが、ほとんどの読者は「不生亦不滅」に注目しているが、最初の問い「『中論』を書かれた目的」にたいして答えていることに対してほとんど無視いるのであるが、この問答こそ

          『中論』2:無分別智と言葉の魔術師

          『中論』の龍樹は魔法使いか

           『中論』の研究や評論にはまず龍樹の人となりの事実を先ず知る必要であるが、龍樹の歴史的生涯は鳩摩羅什訳の『龍樹菩薩伝』によると破廉恥な悪人であったようだ。  まず龍樹は南インドのバラモンの家に生まれ、バラモンの教えを学び成人として既に隠身の秘術、保身の術を身につけていたといわれていて、王家の後宮といって徳川時代の江戸城大奥にあたる警戒厳しい城内に忍び込み美女を全員自らの欲望のおもむくままにしたと伝えられている。  隠身の秘術、保身の術とは魔法使いの術とか忍術であり、その共

          『中論』の龍樹は魔法使いか

          『碧巌録』第七則「法眼慧超問仏」:答えは問いの中に

          この公案は題名の示す道り問いの究極の姿、行為目的は何かに答えているところにあり、人間の人間たるゆえんは他の生物動物と違って問うところに価値があると言う。 道元は「仏道を習うとは、自己を習うことである。自己を習うとは、自己を忘れることである。」と言ったのであるが、 これを別の言葉で表現したのが第7則「法眼慧超問仏」であるが、「自己を忘れる」とは記憶喪失と共通のところがあり、記憶喪失とは自己が何者であるか、名前も生まれた所さえ解らないという状態に置かれていることである。 と

          『碧巌録』第七則「法眼慧超問仏」:答えは問いの中に

          『碧巌録』第六則雲門日々好日:二十四時間働く

          「雲門日々好日」は人間であれば誰もが経験している身近な事が取り上げられているので気軽に読んでいただけると信じているが、言葉と表現が取りつき難い所がありますが、何度か読めば親しみが湧いてくると思います。 本則 挙す、雲門垂語して云く、十五日已前は汝に問はず、(半は河南半は河北。這裏旧暦日を収めず。) 十五日已後、一句を道ひ将ち来れ。(免れず朝より暮れに至ることを。切に忌む道著することを。来日是れ十六。月日流るるが如し。) 自ら代って云く、日々是れ好日。(収。鰕跳れども斗を出で

          『碧巌録』第六則雲門日々好日:二十四時間働く

          『碧巌録』第五則「 雪峰尽大地」

          初めに 人間は何故真理を求めずにはいられないのか、現実は十分充実して満足すべきものであるにもかかわらず、自ら求めて葛藤の中に飛び込こみ苦しむのかと言うのがこの公案であり、理解できれば、そこから解放される方法を知ることに成るであろう。 「湊泊するに難為なり。」とは、普通何かしなければならないとか、不安とか、居ても立っても居られないと思っても何をして良いか解らないと言う状態であり、「 雪峰尽大地」を読めば意味が解らないと言うもどかしさお感じることがある。 「 雪峰尽大地」とは

          『碧巌録』第五則「 雪峰尽大地」

          『碧巌録』第四則「徳山到潙山」

          この則はいわゆる禅問答と言われて武士に例えれば命を懸けた真剣勝負に等しい戦いである。 戦う前から相手の心を知らなければすでに勝負は決まることになる。 だから平凡な行動や表情、持ち物から一瞬の内に切込む急所知るのが常道である。 一方自身と言えば動きや表情、持ち物を相手の眼から消してしまう手段に出ることに成る。 姿を消すと言っても隠れたり目隠しするわけでは無いが、文字では表現することは難しいけれども注意して読めば潙山が徳山に対して一言も言葉をかけていないことで解る。 即

          『碧巌録』第四則「徳山到潙山」

          『碧巌録』第三則「馬大師不安」:人を喰った真面目な話

          垂示にいわく。 解説 まず垂示によって本則の大まかな方針が示されいることに注意しょう。 「一機一境、一言一句、」とは「徳山の棒」、「臨済の喝」、「趙州の唇から後光がさす」と言われるそれぞれの老師の禅の流儀はあるが、「しばらく箇の入処あらんことを図」ると言われる。 「しばらく箇の入処あらんことを図」るとは悟りを得るには「軌則」は存在しないが一応「箇の入処」を通過するのが通例であると言う。 「箇の入処」とは「好肉上に瘡をえる。」ことを覚悟しなければならないとも言う。

          『碧巌録』第三則「馬大師不安」:人を喰った真面目な話

          『碧巌録』第二則「趙州至道無難」

          この『碧巌録』第二則「趙州至道無難」は言語的意識的に考えることを徹底的に否定することを強調する公案であるが、この公案を理解するためには逆に言語的相対的にも考えることが必要であると考える。さらに素直に読むことが何よりも大切なことである。 それでは垂示の現代文からはじめましょう。 解説 まず「乾坤窄く、日月星辰一時に黒し。」とは素直に読めば、太陽と月と星が消え天地自然が一瞬の内に闇に襲われ何も見えない状況を表現している。 それでは誰が何故そのような状況に置かれたのかと言え

          『碧巌録』第二則「趙州至道無難」

          『碧巌録』第一則「達磨廓然無聖」

          『碧巌録』の構成は垂示、本則、頌、著語、評唱の五つから成っており、雪竇重顕が本則と頌、その後圜悟克勤が垂示と著語と評唱を追加したものである。 その全部を現代語に翻訳するととても長いので、したがって垂示、本則、頌を中心に著語と評唱の解説を補足してゆくことになる。 まず初めに「達磨廓然無聖」の「廓」とは心が晴れわたり、わだかまりのない意味であり、禅では「廓然無聖」とは真理は聖人と凡夫を区別せず平等に働く能力であるとする。 具体的には千里眼は動物はもちろん人間には誰しも備わっ

          『碧巌録』第一則「達磨廓然無聖」

          『夢中問答』第二十四話:大智とは

          問い福を目的に働くことは悟りにとっては障害になることは解りましたが、理知を求めることも否定されるのは理解できません、そこのところはどうなんでしょうか。 夢窓国師曰く仏のことを両足尊と言うのは福智ともに充実することを願っていることを意味するのである。 だから決して福智を嫌うことでは無く有為の福業は有漏悪と言いって妄想にまみれた福智を嫌うのである。 人間の行為には有為と無為の二つの種類があり因縁によって生じた行為を有為と言い、無為とは因縁に左右されない自由自在な行為を指す。

          『夢中問答』第二十四話:大智とは

          『夢中問答』第二十二話:魔境は妄想と知る

          問いもし魔境が生じた時どのように対処したらよろしいでしょうか。 夢窓国師曰くこの問題の解決は「不生不滅」を知ればその疑問は起こらないであろう。 今も盛んに議論されている竜樹の『中論』に出てくる「不生不滅の縁起」に関する解釈も同時に解決するであろう。 この問題を哲学的ないしは文法的に解釈しようとすると矛盾が生じるのである。 「不生不滅の縁起」とはそれ自体に矛盾を抱えているのである。 何故なら「不生不滅」と「縁起」は最初からは対立する概念である。 「縁起」とはこの世に

          『夢中問答』第二十二話:魔境は妄想と知る

          『夢中問答』第十八話:魔境とは

          問い仏法の修行者が時には魔境の道に迷い込むとはどの様な状況を言うのでしょうか。 夢窓国師曰く仏道の防害になる人の行為を全て魔業と言い、魔業を行えば魔境に入る。 大般若経の魔事品、首楞厳経、天台の止観の中に詳しく書かれている。 まとめて言えば魔には二種類あって内魔と外魔に分けることが出来る。 外魔とは自己の外より影響を与える全ての集団や個人の行為や思想、友愛なども外魔と言う。 その中でも最大の魔王とも言うべきものは慾心でこれを天魔と言い、いわゆる天狗と名付けた人々の総

          『夢中問答』第十八話:魔境とは