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『中論』の龍樹は魔法使いか

 『中論』の研究や評論にはまず龍樹の人となりの事実を先ず知る必要であるが、龍樹の歴史的生涯は鳩摩羅什訳の『龍樹菩薩伝』によると破廉恥な悪人であったようだ。

 まず龍樹は南インドのバラモンの家に生まれ、バラモンの教えを学び成人として既に隠身の秘術、保身の術を身につけていたといわれていて、王家の後宮といって徳川時代の江戸城大奥にあたる警戒厳しい城内に忍び込み美女を全員自らの欲望のおもむくままにしたと伝えられている。

 隠身の秘術、保身の術とは魔法使いの術とか忍術であり、その共通する意味は姿を隠す、姿を消す術である。

 この姿を隠す、姿を消す術こそ『中論』の「空」の理論の根本的体験であり原理であり教えであることがわかる。

 この目で見る世界、現象は幻だという発見をしたのは隠身の秘術で王家の屋敷にたびたび忍び込んだ経験、なぜ見つからずに侵入できたかのかその理由を知ったからであると思われる。

 忍び込んだ詳しい手段はわかってはいないが、、例えば野球でいえばピッチャーの投げたボウルがバッターの前を通る瞬間一瞬見えなくなる現象が報告されているように兵隊が仲間内の兵隊の人間と勘違いして見つからなかった可能性があるのだ。

 現代では企業や研究機関には門衛がいて確認をしていて、さらに厳しくなりカードとか顔認証システムがあるが、当時は門衛がいても顔を見てほとんどがフリーパス同然で何度か通行して顔を覚えられれば挨拶だけで堂々と侵入できるのだ。

 人間の誤解と先入観を利用したもので、インドではその時代隠身の秘術を教える専門家がいて、龍樹とその仲間はすでに隠身の秘術を身につけていたと言われていたのである。

 その隠身の秘術とは宮本武蔵が使っていた「無念無相」と言って相手の心を惑わして判断を狂わせる妙術と同じであろう。

 沢庵禅師は『不動知神妙禄』の中で敵の前で姿を消す妙術を教えていたことは知られている。

 中国禅の開祖といわれる菩提達磨の『菩提達磨無心論』や六祖恵能の『六祖壇経』の「無相、無住、無念」という言葉も宮本武蔵の「無念無相」と同じで、菩提達磨や六祖恵能は人間が見ている現象は幻影であるといい、龍樹は見ていて見えないから「空」だというのである。

 忍の意味は事実を認めることであり、また耐えることでもあり、人目を避ける、残忍とも訳され、ある意味で龍樹の人生そのもの、『中論』そのものである。

龍樹の『中論』中論觀因緣品第一は次の偈で始じまる。

 不生亦不滅    不常亦不断  
 不一亦不異    不来亦不去

 人は見た目で判断するといわれるのは人の真相を知らずに表面的な姿を見て評価をすることをいい、宮廷に忍び込んだ龍樹と『中論』を書いている龍樹に違いは無く、宮廷に忍び込んだ龍樹は不滅であり、『中論』を書いている龍樹は不生と考えるのが龍樹の『中論』の「不生亦不滅」であり、「空」といい「無想」というのである。

 宮廷に忍び込んだ魔術師龍樹は言葉の魔術師龍樹として変身をとげ『中論』を書いていて「不生亦不滅」である。

 神格化された言葉の魔術師は元からあった魔術師龍樹が生じることも無
 く、消える事は無いのである。

  さらに「不常亦不断」とは魔術師「空」といい「無想」という状態は絶えずそのような状態であるわけでは無いが、魔術師という状態は自己と断絶していて連続していないということでは無いというのである。

 「不一亦不異」とは宮廷に忍び込んだ龍樹と『中論』を書いている龍樹は同じ人格かと言えば同じ人格では無く、別人かと言えば別人ではないのである。

 それでは「不来亦不去」とは『中論』を書いている龍樹は過去から来たのかと言えば過去から来たのでは無く、『中論』を書いている龍樹は去ってゆくのかと言えば去ってゆか無い。

 このように龍樹の『中論』は龍樹の魔法の術といわれる「以心伝心」の妙術の経験をもとに書かれていたことが明らかになった。

 しかし、この妙術は不思議なことでは無く我々日々使っていても気づかないだけであり、気づけば妙術をたえず使っていて、また妙術にかかっていることに気づかないだけであり、なぜなら我々は「以心伝心」の妙術という言葉を聞いても妙術だとは思は無いことこそ不思議なことであることに気づかないのである。言葉を使わず思いを伝えるられることは不思議なことであるにも関わらず見逃すことは、禅語は理解できない言葉であるという「先入観」から見逃してしまうのである。

 これは日常でも起こる一例にすぎないが、龍樹が姿を消して宮中に忍び込には、すでに生死を極めていなくてはできないことであること、仲間の三人は死を恐れて隠身の秘術が解けてしまったのである。命が惜しいという妄想が人の姿として現れ兵隊に見つかって殺されたのであった。

 これを隠身の秘術といい龍樹の使っていた魔術であり、姿を消して宮中に忍び込むといい、宮本武蔵は命を捨てて(無念無相)敵を倒すのである。

 見えないといっても目の前にあるものが見えないのではなく、色と形は感覚器官である此の目で知ることが出来るとは仏の教えるところであるが、それを敵の幻と認識するのは恐怖心という煩悩ではないか。

龍樹は命を捨てることによって恐怖心が消えて敵が敵でなくなって、それで敵も龍樹を敵ではないと認識して、味方として堂々と遠くえ去ることが出来たのであった。

 龍樹の『中論』は言葉による魔術であり言葉による妙術によって人々を迷わせ人生の矛盾を解かせようとしていたのである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

参考文献
『中論』 ナーガールジュナ
『菩提達磨無心論』 菩提達磨 中央公論社
『六祖壇経』 六祖恵能 中央公論社


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