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『碧巌録』第四則「徳山到潙山」

この則はいわゆる禅問答と言われて武士に例えれば命を懸けた真剣勝負に等しい戦いである。

戦う前から相手の心を知らなければすでに勝負は決まることになる。

だから平凡な行動や表情、持ち物から一瞬の内に切込む急所知るのが常道である。

一方自身と言えば動きや表情、持ち物を相手の眼から消してしまう手段に出ることに成る。

姿を消すと言っても隠れたり目隠しするわけでは無いが、文字では表現することは難しいけれども注意して読めば潙山が徳山に対して一言も言葉をかけていないことで解る。

即ち、言葉を使わずして把定はじょうを行い、放行ほうぎょうを行使するのである。

『無門関』の四十八則乾峯けんぽう一路の頌に「未だ歩を挙せざる時先ず已に到る。未だ舌を動かさざる時先ず説き了る。」と言うように言葉を使わずして指令を下す手法を把定はじょうを行い、放行ほうぎょう行ずると言う。

なお把定はじょうとは留めることであり、放行ほうぎょうとは自由にさせることである。

それを徳山の立場から、潙山の側からと、また雪竇重顕と圜悟克勤の第三者の評価判定を見なければならない。

垂示

垂示にいわく、青天白日、更に東を指し、西をかくすべからず。時節因縁、また須らく病に応じて薬をあたうべし。しばらくへ、放行ほうぎょうするが好きか、把定はじょうするが好きか、試みにす看よ。

垂示の解説

「青天白日」とは、よく晴れた青空であることから疑われたり、やましい所が無いと言う意味と解される。

しかしよく晴れた青空であって「更に東を指し、西をかくすべからず。」とは、疑われたり、やましい所が無くっても、あなたの行動を見て怪しいと思われないように気を付けましょうと言う。

「更に東を指し、西をかくすべからず。」とは、西に注意を向けながら東を向いて歩いては成らないと言う二つ目の意味もあり、日常語で言えば子供に余所見をすれば怪我をする事になるから前を向いて歩きなさいとの別の意味も持っている言葉である。

徳山に対してはそんなに重い「『金剛経』を大事そうに持ち歩いて」躓いて顔を地面に打ち付けないようにと注意をしており、徳山は躓いた時に、この言葉に”は!”と気付いたのであった。

この常識的でありふれた言葉がこの公案の重要な意味を持ち、「事実は小説より奇なり」と言うが、禅では「奇特玄妙無し」とか「仏法許多そこばくの事無し」と言い、魔法を使うことでも不思議なことでもないと言う。

この公案はこの単純なことさえ理解出来れば大半は解決されたも同然である。解らなければもう一度確認すれば良い。

徳山は『金剛経』の知識に関しては誰にも負けないと思っていても、近頃禅と言う教外別伝、以心伝心なるものが盛んに成っているが、理論でもってその化けの皮を剥してやると下調べに来たのではないかと言うのである。

「時節因縁」とはこの公案の話の順序には前後の矛盾があるが、その矛盾を解くことが公案を解くことであると言う意味は、徳山の経歴経験を重ね合わせた表現になっていることである。

『徳山到潙山』という題名を『徳山挾複子とくざんふくすをさしはさむ』と言っている解説本もあるように徳山は『金剛経』の学者であり周囲から金剛王ともいわれるほどの高名で偉大な研究者であるが、その一心同体とも言える『金剛経』を何時も肌身離さず持ち歩いていたのである。

ところが命よりも大切な『金剛経』を山と積み上げて焼いてしまったのである。そのいきさつは後程詳しく述べるが、『金剛経』あっての徳山が『金剛経』を捨てることは命を捨てること以上に重要なことは誰が理解できたであろうか。

いわゆる『金剛経』に把定させられていたことになり、考えや動きを規定されてしまっていたのを放行ほうぎょうさせられたことで実相を見る目を実現したのである。

『金剛経』を捨てることを放行ほうぎょうさせられたと言い。「放行すれば瓦礫も光を生じ、把定すれば真金も光を失す」と言うように禅の修行では理論を捨てることがどれ程重要なことであるかは、言葉でわかっていても、注文すればすぐに買える時代ではなく『金剛経』を焼いて捨てることはなかなか出来ないものである。

それでは徳山が如何にして何時どのようにして『金剛経』を捨る決定を下したのであろうか、その経過が詳しく書かれているのである。

本則

す。徳山潙山いさんに到る。
複子ふくすわきばさんで法堂上に於いて東より西に過ぎ、西より更に東に過ぎ、顧視して無!無!と云って便すなわち出づ。
ちょう、著語していわく、勘破了也かんぱりょうや
徳山門首もんしゅに至り、かえっていわく、また草々なる事を得ずと、すなわち威儀いぎして再び入って相見す。
潙山坐する次いで、徳山坐具を提起していわく、和尚。 潙山払子ほっす取らんとす。
徳山すなわち喝して、拂袖ほっしゅうして出づ。
ちょう著語していわく、勘破了也かんぱりょうや
徳山法堂を背脚はいきゃくして草鞋そうあいけてすなわち行く。
潙山、晩に到って首座しゅざに問う。適来てきらい新到しんとうなんの処にか在る。
首座いわく、当時法堂を背脚して草鞋そうあいを著けて出で去れり。
潙山いわく、此子こし已後いご孤峰頂上こほうちょうじょうに向かって草庵そうあん磐結ばんけつして佛をし、祖をののしり去ること在らん。雪ちょう著語ちゃくごしていわく、雪上に霜を加ふ。

本則の解説

それでは圜悟克勤の評唱を踏まえて解説してゆきます。

「徳山潙山いさんに到る。」「複子ふくすわきばさんで法堂上に於いて東より西に過ぎ、西より更に東に過ぎ、顧視して無!無!と云って便すなわち出づ。」とあるが徳山が必ずしも潙山《いさん》に行ったことを意味せず、禅問答の何であるかも知らないで言わば偵察に行ったと考えられる理由は、「徳山が最初に複子ふくすわきばさんで」いったと言うことで『金剛経』を焼く以前の行為であり、未だ禅の修行を行う以前の出来事だと知らなければ成らない。

この段階で雪ちょうが「勘破了也かんぱりょうや。」と言った意味は「東より西に過ぎ、西より更に東に過ぎ」たことと「無!無!と云っ」た言葉を残したことにより徳山は意図を動かぬ言葉と行動として証拠として残したことである。

「立つ鳥跡を濁さず」と言うが禅者は行動の足跡を決して残さぬことから、徳山とは会ったことも無く経歴も知らなくとも禅の何であるかも知らない僧であることを見抜いたと言うのが「勘破了也かんぱりょうや」である。

「東より西に過ぎ、西より更に東に過ぎ」るような行動を雪ちょうは「擔板漢」、「野狐精」と注をしている。「擔板漢」とは物事の全体を見ず一面のみを見て突き進むことであり、「野狐精」とは悟ったふりをした怪しい人と言う。

最近では店舗における市場調査はコンピューターソフトによって行われるが、直近のライバル店舗の売れ筋とか値段を調べるには直接店へ行って此の目で見ることもあるが、このような行動は直ぐにスパイであると解るのである。

目的の商品を見ないふりをして足早に西へ東へと歩きピンポイントで調べてくることがあるように聞くが、雪ちょうは間違いなしに「人をして擬著せしむ」行為であると言い、「三十棒を與ふ」と続ける。

そこで「徳山門首もんしゅに至り、かえっていわく、また草々なる事を得ずと、すなわち威儀いぎして再び入って相見す。」と書かれているが二回目の相見といわれるのは垂示で「時節因縁」と言うように初回の相見の何年か後の相見であること、「三十棒を與ふ」とは三十年後と言うことである。

したがって「また草々なる事を得ずと、」書かれた後に朝比奈宗源訳注の『碧巌録』には注として「法去収来」と書かれていてその意味は「放行ほうぎょう把定はじょう」と同じであり、『金剛経』を放行ほうぎょうさせられて大死一番し生まれ変わったのちの徳山であり、雪ちょうはそれを認めたのである。

それではそれ以前に誰が把定はじょうしたのかと言う疑問が生じるがそれは評唱に於いて登場する路上で饅頭を売る一婆子いちばすとの出会いから始まるのである。

先にも言ったように徳山は『金剛経』を持ち歩き即心是仏と説く禅を征伐してやろうと意気込んで南方へ来て力を付ける為に饅頭でも食べようかと立ち寄った一婆子いちばすの言うには、大切に持ち歩いているカバンの中には何が入っているのかと話しかけたので徳山は『金剛経』と答えた。

すると一婆子いちばすは突然饅頭を賭けて質問して来た、答えれば饅頭を無料で進ぜよう、出来なければ他の店を探すがよいと「放行ほうぎょうしたと思ったら間髪を入れずして把定はじょうをしてきたのである。

『金剛経』には「過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得」とあるが、どの心に食べさせるのかと把定はじょうせられて徳山は逃れることは出来なかった。

然して一婆子いちばすの言うままに徳山は龍潭りゅうたん和尚んのもとへ参じたのである。

そこでは丁重に扱われて夜には入室を許されたが夜も深けたのでもう帰ってはどうかと言われて、熱くお礼言って簾を上げると外はもう暗く成っていたのでそれを告げると、龍潭りゅうたん和尚は紙燭ししょくを灯して徳山に手渡しすると同時に息を吹きかけて消してしまった。

するとどうしたのか徳山は「豁然として大悟」して龍潭りゅうたん和尚に礼拝して、法堂前に『金剛経』を積み上げて燃やしてしまったのである。

時節因縁とはこう言うことか、一婆子いちばすの「過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得」と言う眠っていた把定はじょう放行ほうぎょうされ解き放され「豁然として大悟」したのであった。

実は「東より西に過ぎ、西より更に東に過ぎ、顧視して無!無!と云って便すなわち出づ。」との、この文の象徴する実体験は一婆子いちばす把定はじょうから始まり龍潭りゅうたん和尚の下に於ける「豁然として大悟」した経験が重ね合わされているのである。

潙山老漢は徳山の一婆子いちばすとの出会いも龍潭りゅうたん和尚の僧堂に於ける「豁然として大悟」した事実は知らなくとも、遠く離れいても一目見れば解るのだと圜悟克勤は言う。

それが解るかな!と圜悟克勤は「東より西に過ぎ、西より東に過ぐ。しばらいえ意作麼生いそもさん。潙山老漢、また他に管せず。若し是潙山にあらずんば、また他に折挫一上せられん。看よ他の潙山、老作家の相見、只菅ひたすらながら成敗を観ることを。」と言う。

これはいわゆる「不立文字」、「以心伝心」と言われ、言葉を使わずに心と心を通わせているにすぎないので、それを行うにはこれまた実に簡単なことであり、圜悟克勤に言うように「只菅ひたすらながら成敗を観ること。」である。

何も「只管打坐」は道元禅師の専売特許でも無いのであり、心を青天白日に保てばいいのである。

「過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得」というが、「過去心と現在心と未来心」を重ねて照らすことによって全てが観えて来るのであり、「雪上に霜をくはふ」とは、「雪」を「過去心と現在心と未来心」とすれば「霜」とは言葉であり、それを重ねて我々は物を観ているのであるから心と言葉の区別が出来ないのである。

徳山は龍潭りゅうたん和尚のもとで紙燭ししょくを灯されて息を吹きかけて消されて何も見えなくなって、躓いて鼻腔を打ち付けるところであったのを、『金剛経』を持っていた手から打ち捨ててあわやと助かったのである。

「東を指し、西をかくすべからず。」とは『金剛経』と命とどちらが大切かと心を一つにして『金剛経』を捨てて鼻腔を打ち付けることから逃れたのである。

「雪上に霜を加ふ」とは「雪上に霜を」「重ねる」ことであって、「徳山・潙山・雪ちょうと同参なること」とは、この公案じたいはすべて「重ね」られているのである。

「徳山・潙山・雪ちょうと同参なること」とは、同一のデータを参照していると言う事で、同じ事例を想定して見ていると言う意味になるから以心伝心とも言う。

徳山が潙山老漢に相見したことと一婆子いちばす把定はじょうせられたのも、龍潭りゅうたん和尚のもとで「豁然として大悟」したのも同一の実相だと言い、「雪ちょう此の公案の落処を知って、敢て他の輿ため断じて更にふ、雪上に霜を加ふと」、「徳山・潙山・雪ちょうと同参なることを」とは「重ねる」ことである。

「雪ちょう此の公案の落処を知って」の「落処」とは「此子こし已後いご孤峰頂上こほうちょうじょうに向かって草庵そうあん磐結ばんけつして佛をし、祖をののしり去ること在らん。」ということである。

したがって潙山老漢のもとで徳山が相見した現場は徳山の龍潭りゅうたん和尚のもとで「豁然として大悟」した事を再現要約したものであることに過ぎないのである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


参考文献 
『碧巌録』朝比奈宗源訳注 上中下 岩波書店
『碧巌録』大森曹玄著 上巻 下巻 栢樹社



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