見出し画像

『映画を早送りで観る人たち』vs『陰翳礼讃』

先日、サントリー美術館で開催されている『歌枕 ーあなたの知らない心の風景ー』の展示会に足を運んだ。

元々母が高校の古文教諭、自身も大学で国文専攻だったこともあり、幼い頃より馴染みのある世界である。特に、私の名前である「あかね」という語自体も、「むらさき」という語を導く枕詞であるというのは、ひとたび万葉集をさらったことのある人間には既知の事項である。

あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る

額田王

今回の展示では、水車と柳を主題とする「宇治」、桜の名所として名高い「吉野」などを始めとして、和歌の枕詞にまつわるモチーフや屏風絵に表される風景画が所狭しと飾られていた。

さて、これは展示のうちの一つである「小倉山」だが、この漆箱を見て2つの文書が思い出された。
ひとつは谷崎の『陰翳礼讃』、もうひとつは新書『映画を早送りで観る人たち』である。

西洋的な明るさvs東洋的な暗さ

ここでいう明るさ/暗さとは、無論、調光的な明暗を指すのではない。
谷崎の言葉を借りると、

ぜんたいわれわれは、ピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光る様に研みがき立てるが、われ/\はあゝ云う風に光るものを嫌う。われ/\の方でも、湯沸しや、杯や、銚子等に銀製のものを用いることはあるけれども、あゝ云う風に研き立てない。却って表面の光りが消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない下女などが、折角さびの乗って来た銀の器をピカピカに研いたりして、主人に叱られることがあるのは、何処の家庭でも起る事件である。

『陰翳礼讃』より

とある。続きを読めば何となく感じられるが、谷崎の主張としては
西洋的=ピカピカとして曇りのない「分かりやすさ」、であるのに対し
東洋的=照明や建物由来の暗さ、素材由来の純朴さを生かした「分かりにくさ」
を指すと捉えて問題ないと思う。

得てして、この漆箱や屏風絵が展示されていたスペース全体も、この金蒔絵を際立たせるためか(もしくは展示会という場所に共通した空間設計であるのかもしれないが)、だいぶ照明を落とした設計であった。

この暗さ、空間としての翳りが蒔絵の美しさをいっそう引き立てるという意味で、谷崎の主張に深く頷いた体験であった。

「分かりやすさ」が礼賛される現代日本

幾分か主語が大きいかもしれないが、谷崎の陰翳礼讃に対し、現代は“誰にも語釈の余地を与えない”分かりやすさが求められる時代となった、と論じたのが『映画を早送りで観る人たち』である。

現代日本では映画を始めとしたコンテンツ類が消費/鑑賞の2つに振り分けられ、ひとたび「消費」対象のコンテンツに分類されれば、通常速度の倍にあたるスピードで「流し見」される傾向にあるのだという。
そこでは本来与えられたはずの「間」の効果や、登場人物の微妙な表情の変化等は一切無視される。というより、倍速で飛ばされるが故に無かったことにされる。

また、同著の中での印象的なエピソードとして『鬼滅の刃』の説明過多についても言及されていた。
例えば主人公・炭治郎が雪山の崖から落ちた際、無傷であった事を表すために「落ちたのが雪でよかった。」と敢えて喋らせるのだという。
断っておくが、これはテキストのみの文庫ではなく、イラストがふんだんに盛り込まれた漫画、もしくは劇画である。

本来、着地したのがふんわりと積もった雪の上であった故に、怪我をせずに済んだ、というのはイラスト/画面だけを見ても十分察することができそうな事案であるが、あえて主人公に「説明させる」ところにコンテンツの表現手法の変化を見出しているのである。

『映画を早送りで観る人たち』では「読者の幼稚化」という強い言葉でもって説明されていたが、この“分かりやすさ”を求める傾向は、倍速視聴時代の申し子であるZ世代を中心に広まってきているのだろう。

「抽象化」が「分かりにくさ」と捉えられることへの危機感

話を戻すと、和歌文化の世界では、「宇治=水車、柳、橋」、「吉野と龍田=桜と楓」というように、ある枕詞といくつかの典型的な風景がセットで解釈されるようだ。

展示会の後半では、ある平皿に施された丸い意匠を「武蔵野」という枕詞の情景だと説明していたが、知識のない私からすればなにが「武蔵野」のモチーフなのかがまるで分からなかった。
読めば、秋の平野を連想させる濃緑に丸い“月”が焼き付けられた風景を、「武蔵野」だと捉えるのだという。

この平皿が、和歌の枕詞「武蔵野」を表現したものだと初見で当てられる人はいったいどのくらいいるのだろう。(そもそも鑑賞者の教養を試すものであるから、当てずっぽうをする必要性がない、と言ってしまえばそれまでだが)

このように、ある皿1枚を持ってしても「分かりやすさ」を解釈できる人とできない人、要は、文化的知識や感性に裏付けられた鑑賞方法を有している人とそうでない人とでは、見える世界がまるで違う。
それを「分かりにくい」の大合唱で亡き者にされないかー「分かりやすさ」という白日の元に陰陽のすべてが晒される事態にならないかーというのが、これらの体験を経たあとの私の懸念である。

展覧会の後は甘味が欲しくなる

虎屋の夏の生菓子「夏の桃」。これも、薄桃色の餡と葛で桃の意匠を表したものである。

「誤読の自由度が高いほど、作品の質が深い」

これもまた、『映画をー』の中で述べられていた主張である。

誤読を許さず、主人公の一挙一動を説明させるようになってきた現代日本のコンテンツ。
それらの声高な主張が、例えば行灯の薄明かりを日常生活から遠ざけることになったのでは、というのは私の思い込みだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?