『無門関』第三十八則牛過窓櫺
本則口語訳
五祖は言った。
「仮に水牛が格子をつけた窓から通り抜けたようなものだ。
頭もつのも足も外に出たがしっぽだけが何故か牛舎に残っていた。」
説明
本則は短い文であるが、全く雲をつかむような感じで解説なくして理解はできないでしょう。
具体的な例を取り上げるのが一番わかりよいので、スポーツのイップスについて説明します。
しかしイップスはあまり知られていないかもしれません。
イップスとはエースといわれる野球の投手の手からボールが離れないという現象を言います。
エースですよ、野球のチームで一番という投手の陥るスランプと言ってよいでしょう。
何年も負けを知らない投手が突然ボールを投げられないとは考えられないでしょう。
投球技術はもう完成しているのに投げられない苦悩は極秘にしているのであまり知られていないのです。
水牛が格子窓から通り抜けたとは投手がエースに成長したということです。
もう恐れるバッターが居ないという自信満々なのです。
禅で言えば悟っているので投球も自由自在に投げられたのです。
集中力も増して無心に投げられたのですが、ある一回の負け試合からその集中力が仇となるのです。
これをしっぽだけが通らなと言うのです。
思い道理にコントロールが効かないのです。
意識すればするほどボールがそれて行きます。
その特徴は集中力を要する範囲の狭い的を狙うことにあるのです。
だから的を絞って投げるピッチャーやバレーボールのサーブ、ゴルフに起こりやすいという。
もうおわかりになったと思いますが的は空間ですね。
空間はみえないので、相対的に知ることになります。
バッターは構えて動きませんので、相対対象が固定されたことを意味します。
ピッチャーにとっては有利な条件が出来上がったのでこれまで勝利投手になってきたのです。
ところが、相対対象が固定されるとある条件の基に見えなくなるのです。
だから禅ではその悟りを忘れろといいます。
答えは実相無相を体得せよということに尽きるのです。
実相無相とは形でものを見ないということで、バッターを見ていては的が見えないのである。
当然のことであるがバッターを見ていては的を見ていないことは理解できると思う。
ルビン壺の人の顔を見ていると壺は見えないのである。
ルビン壺の空間を見ることを実相無相と言うのである。
それではバッターの姿を見ないようにすればよいかと言えば、見ないように注意を向けることもだめです。
難しいけれども自己を忘れることしか方法はないでしょう。
禅では人を突き放して考えることを放棄させるのです。
無門の頌の口語訳
難関を通り過ぎれば側溝におち、
元に戻れば消される。
無視できないしっぽ、
摩訶不思議である。
説明
難関を通り過ぎれば側溝におち、とはスポーツ選手のスランプを言う。
元に戻れば消される、とは自我が消えて無くなることを言う。
あなたはルビンの壺で最初に壺が見えると思う、顔が両端にみえるには時間がかかると思うが。
これが重要なヒントであり、時間、空間を自由自在に使いこなすことを与奪自在と言う。
時間を掛けねば、それは自己を忘れることである。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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