『無門関』第二十二則 迦葉刹竿
無門禅師の本則口語訳
阿難は迦葉尊者に問うた。
「世尊は金襴のお袈裟を伝えましたが、それ以外に何かを伝えましたか。」
「阿難」と迦葉尊者と言った。
「はい」と阿難は答えた。
「門前の刹竿をたおせ」と迦葉尊者は言った。
説明
公案「迦葉刹竿」はこれだけの簡単な問答ですが、この瞬間に人間の性格が全面的に表現されているのです。
老人に誰々さんと話かけてみてください、また幼児園くらいの子供が遊んでいる時名前を呼んでください。
どの様な違いがあるでしょうか。
それぞれ生きている世界が違っていて返事も異なるはずです。
老人は落ち着いているようで返事に時間が遅れるところがあります。
子供は純粋であって親の人生観を素直に反映しています。
子供はそのまま親の鏡なのです。
遊びに夢中になっている子供の名前を呼んでも直ぐに返事をしなければ、それは遊びに熱中しているわけではないのです。
聞こえていて返事をすべきだとは考えていても、親の言う言葉をすでに知っているからなのです。
言葉を聞く前にその内容をすでに知っているから聞く必要がないのです。
大人だって同じで上司と部下の間、友人との会話全て相手の期待と自己の役割を考えてから返事をしているのです。
日本人はアメリカと比べると自分の意見、考えを素直に表現しないといわれています。
だから阿難と迦葉尊者の間も鏡の役割を果たしており、何方の鏡がくもっていても時間に遅れが出てしまいます。
「阿難」と迦葉尊者と言った。
「はい」と阿難は答えた。
その間の時間は書かれていませんが「石火の機」ほどの間だと考えられます。
これが素晴らしいところなのです。
阿難と迦葉尊者との間には心の壁が存在していないことを証明しているのです。
「門前の刹竿をたおせ」とは講話が終わった知らせではあるが、迦葉尊者が阿難との間に子弟としての壁が無くなった証明なのです。
阿難と迦葉尊者との間の心の壁が無いこととは以心伝心が成立したことを意味するのです。
禅の継承は師と伝承者の間に宗教体験の一致が無ければなりません。
子供が聞く前に親の意志を知ることに意味があるわけでは有りません。
わかっていても返事をしないことは無視しているか反抗の態度なのです。
これでは意志疎通とは言えません。
その反対に直ぐに良い返事をする子供も気を付けなければいけません。
この子供も驚くほど親の考えを予測していて良い子になっている可能性が高いのです。
心から同意しているのでは無く恐ろしいから無理に合わせているのです。
意志疎通を高めるためには予測をしないことです。
心を留めないで返事をすることが大切なのです。
何も考えないで瞬時に応答することが必用なのです。
それが人と人の信頼を高めるのです。
これが簡単なようで難しいことは実行してみれば分かります。
人から呼ばれた時人間は煩悩が一瞬にして湧き出るのです。
その煩悩を意識を出来れば問題は無いのですが、意志疎通の妨害をすることになります。
直ぐに返事をすることで煩悩は生じないのです。
それが自己を忘れる秘訣なです。
道元禅師は「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と言いました。
無門禅師の評語口語訳
この公案に対して一転語を下し得たなら、
霊鷲山の一会厳然として続いていることが解るであろう。
もしそれが出来なければ毘婆戸仏が早くから心を留むるも、
妙心を得られなかったことが解るであろう。
解説
一転語とは真実を見通すと言うことで理解できたなら。
禅の伝統が続いている理由が解るであろうと言う。
「早くから心を留むるも」という言葉がでてきましたが、心を留めてはいけないのです。
心を留めたから仏心を得られなかったと解釈すべきなのです。
「阿難」と迦葉尊者と言った。
「はい」と阿難は答えた。
何も考えず、心を留めず、に返事をしたから仏心だったのです。
無門禅師の頌の意味
問いと返事の間に少しの隙間が無いことをたたえているのです。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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