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『無門関』第四十五則他是阿誰

無門禅師の本則口語訳

東山演師祖は「釈迦や弥勒は他者の奴隷にすぎない。さてその他者とは誰か。」と言った。

説明

仏教のなかでは釈迦牟尼や弥勒菩薩は最高位に存在する仏に違いないのですが、誰かの奴隷だと言うのです。

その誰かとは何者であるかと言う問いです。


やはりこの公案も、即今の自己に置き換えて考える必要があります。

釈迦牟尼や弥勒菩薩は自由無碍の世界に住んでいる人です。

そのような釈迦牟尼や弥勒菩薩でも逃れる事の出来ない主人とは誰かといいます。

まず我々は心と身体の二つにわけて何方が主人かと考えるでしょう。

心身二元論と言って古くて新しい問題になります。

心が身体を操っているのか、それとも大脳が心を作っているのかという問題です。

所が三木清と言う哲学者が『哲学入門』において、この二元論を見事にクリアしているのを今知りました。

意識と言う概念から飛び出ることが二元論から飛び出ることになるのだといいます。

意識を捨てると言うことは無心に成ることを意味します。

それではどのようにして心身二元論から飛び出るのかと言えば、

意識が無くなるということは心身問題の片一方の心が無くなると言うことになり対立は起こらないのです。


これで心身二元論は解決しました。

次に問題になるのが主客の対立です。

意識から見れば外界にある客観も自己の身体も共に客観であるというのである。

その身体的行為を主体とすれば外界である客観も身体も共に客観である。

主体的な行為と行為の関係には主観である意識が顔を出す機会は無いという。

だから対立関係にはならないのであると言う。

主体的行為という立場に立てば環境と身体は共に作用しあうという関係なり対立は解消されるのである。

二つの円に振り分けられた主観と客観では無く、客観という大きな円の中に主体的行為もふくまれるというのである。

主体的行為は主観であると共に客観であると考えるのである。

ただし客観であると言っても物では無く我と汝でなければならないという。

主体と主体の関係でなければならないのである。

二項対立を意識と身体的行為の対立から身体的行為と身体的行為の関係と考えれば、おのずから対立は消えてなくなるのである。

主体と主体はお互いに作用すると同時に作用されるという関係によって対等であるという。

対等であれば主従関係は生じようが無いのである。

それでは釈迦牟尼や弥勒菩薩は誰の奴隷なのかと言う問いが残ります。

そのヒントは無門禅師の評語と頌にあるようです。

無門禅師の評語の口語訳

もし彼と相対したならば、

たとえば街で出合い頭に、

自分の親に出会ったようなもので。

改めて親であるかと、

道行く人に聞く必要はなかろう。

説明

何時何処で街で出合っても顔を見間違えることの無い人と言えば、

ほぼ毎日でも顔を見ている彼と言うことに成る。

無門禅師の頌の口語訳

他人の弓は引くものではない。

他人の馬は乗らない。

他人の過失を保護してはいけない。

他人の事情に深入りしてはいけない。

説明

結論から言いますと修行僧の奴隷だと言うのです。

禅には伝統的に一子相伝、不立文字と言って学問で禅の真髄を伝えるものでは無いことである。

したがって自己の一生をかけても後輩を育ってるのが使命である。

なにを犠牲にしても伝統を守るということは釈迦牟尼から未来の弥勒菩薩までの道を止めては成らないから伝統の奴隷だと言うのです。

それには修行僧の自立が一番大切だから他人の弓は引くものではない。他人の馬には乗らない。

過保護になって失敗をうやむやにしてもみ消してはならない。

他人の事情、苦悩は公案にも勝る公案だから安心させてはいけない。

以上です。


参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
『哲学入門』三木清 青空文庫
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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