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『草枕』論8:主客未分の具体例

禅における『臨済録』は避けてはと通れない公案であります、その中に出てくる「無位の真人」は鈴木大拙が取り上げて世界的に有名になりました。

言っていることは単純で常識的で誰しもいまさら何を言っているんだという内容でありますが、これを真に理解している人は稀でしょう。

其の臨済義玄禅師が言うには「われわれの肉体のなかに、一人の無位の真人がいて、常におまえたちの感覚器官を通じて出たり入ったりしている。すなわちおまえたちが見るところ、聞くところ、思うところ、活き活きとして働いている。まだそれを体認自覚しない者は、見よ、見よ!」と言った内容で問答が続きます。

ところで「無位の真人」とは聞いたことの無い言葉だと思います、しかも肉体の中にいる言っても信用しないでしょう。

禅では見えない心の働きを擬人化して表現するのです。

その「無位の真人」が目や耳から出入りしているとは雑音や言葉を聞いたり、話したりしていることをいいます。

そしてその雑音や言葉は意識しているが、その雑音や言葉に紛れ込んで一緒に出入りしている「無位の真人」を見たことの無い人は見よ、見よというのです。

特に「無位の真人」というからには感覚器官である目や耳から見えたり聞こえたり、それを意識したりする単純な現象では無いようです。

しかしそうは言っても目や耳、口、手足が別にあるわけでも無いので、同じ目や耳、口、手足の働きに違いはないのです。

ところがどうも、あるがままに見ると見えていて、誰もが毎日そのように見ていながら自覚していないだけだと臨済義玄禅師はいうのです。

そしてこのような、体験を西田幾多郎は主客未分ともいいます。

何故主客未分と言うかといいますと、その経験は言語化され文節化されていないので意識できないのです。

人間はものに名前を付けないと意識したり、記憶できないのです。

心と言っても何処に心があるのか頭にあるのか、丹田にあるのか知らないと思います。

名前があれば見たり触ったり出来なくっても、心と言うものが人間にはあるのだと考えるわけです。

見えない「無位の真人」は人間の目や耳から出入りしているけれども、見えない心があると考えるように「無位の真人」が出入りしているとかんがえるのです。

考えなくとも毎日無数の「無位の真人」は出入りしていて、その「無位の真人」が出入りしていないと人間は生活出来ないのです。

それほど大切な「無位の真人」なのですが、考えると「無位の真人」では無くなってしまうのです。

だから考え無いで、あるがままに見よというのです。

あるがままに見ていると「無位の真人」が思わぬ危機に身を守ってくれるのです。

その具体的な実例を夏目漱石が『草枕』で見事に表現しているので紹介したい。

主人公である画工が旅の途中で一軒の茶店を見つけ、声をかけるが返事がない、再度呼んでも声が返ってこない。

「明け放しても苦にならないと見える」、居るには違いな、小銭がそこらに散らばっている、用心するところが見られない。

『草枕』の茶店のおばあさんの心が開放的で用心をしないところが面白い。

このような表現の意図するところは心に警戒心がなく開放的で、あるがままに生きているところとおもわれる。

そしてその街道は馬子が行き来してそのつど馬子唄や馬の鈴がきこえる。

ところが茶店のおばあさんにとっては馬子唄や馬の鈴は聞きなれていてほとんど意識していないだろう。

現代の我々が自動車の雑音にいちいち気を留めないで生活しているように。

しかし画工は茶店のおばあさんの心の内を次のように推測している。

『また誰ぞ来ました」と婆さんが半(なか)ば独(ひと)り言(ごと)のように云う。ただ一条(ひとすじ)の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前逢(お)うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下(くだ)り、思われては山を登ったのだろう。』

聞き流していて注意して聞いていないから意識されることはなかっても、茶店のおばあさんの心では無意識の内に食べる物の用意をしたり、店頭へ出たりしていたのだろうとかんがえている。

このように意識せず馬子唄や馬の鈴の音が茶店のおばあさんの心に出入りすることを「無位の真人」が出入りするというのです。

現実には馬子唄や馬の鈴の音と茶店のおばあさんの心は主客未分の状態にあるのです。

意識していないとは対象と見る自己が無いということで、

それでも心の奥で誰か来たと思われていたとすれば、それが純粋経験、主客未分なのです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用参照は青空文庫です

秋月龍眠著『鈴木禅学と西田哲学の接点』

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