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『夢中問答』第二話:無上道とは情を忘ずること也

『夢中問答』を読むうえで注意すべきところは一般常識とは正反対と思われる表現がいたるところに出てくることです。

『夢中問答一:幸福とは』では幸福な生活をおくるには、福を求める心をもっては成らないといっているのです。

さらに須達夫婦は米一升を人に与えたら明日の生活に困ることが解っているにも関わらず与えたのです。

このような事はあり得ないと思うかも知れませんが、現実の生活では日常至る所で行われているのです。

考え方を転換して「米一升」のところを「善根」と読み替えてみてください。

文字通り心に善根を植え付けることは身体の食事にも匹敵する欠かせない心の食事なのです。

「我思う、故に我在り」とはデカルトが『方法序説』で言った有名な言葉でありますが、

人は絶えず意識して自己を褒めたり認めることによって生きがいを感じているのですが、

ところがそれは搾取されて自信の無い生活を余儀なくされているのが現実なのです。

認めて欲しくて他者を褒めたり認めることに時間を浪費しているのです。

与えることによって与えられる、その何処がいけないのでしょうか。

自信とは与えられるものでは無く、自らの内から湧き出てこそ本物なのです。

報酬を得る為では無く「身命を惜しまず」与えることでなければ成らないのです。

それでは如何すれば良いのかと言う問いの答えが順次書かれております。

「情を忘ずれば仏法」とは自己に対する愛着や名利慾を放下することだと言っています。

「情を忘ずれば仏法」とは、いわゆる道元禅師のつぎの名文とほぼ同じ意味で、より具体的に解説をしています。

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

本文は短いので全文掲載しました。

問い。

世間のわざをして福を求むるは罪業の因縁なれば、まことに制せらるべし。

福を祈らんために仏神を帰啓し、経呪を誦持するは、結縁とも成りぬるべければ、ゆるさるる方も有るべしや。

答え。

もし結縁の分を論ぜば、世のわざをなして福を求むよりも勝れたりと申すべし。

しかれども世福を求むるほどの愚人は、とかく申すにたらず。

たまたま人身を得て、あい難き仏法にあふて、無上道をば求めずして、

あらた経呪を誦持して世福を求むる人は、特に愚人なるに非ずや。

故人の云はく、世法の上において情を忘ずれば仏法なり、仏法の中において情を生ずれば便ちこれ世法なりと伝伝。

たとひ仏法を修行して自ら菩提を証し、亦衆生を度せんと大願を発せる人だにも、

もし仏法に於いて愛着の情を生ずれば、自利利他ともに成就せず。

況んや我身の出離のためにもあらず、亦衆生利益のよしにもあらず、

ただ世間の名利のためなる欲情にて、仏神を帰敬して経呪を読誦せば、いかでか冥慮にかなはんや。

もし身命をたすけて仏法を修行し、衆生を誘引する方便のためんらば、

世間の種々の事業をなすとも、皆善根となるべし。

もしその中において仏法を悟りぬれば、前になす所の世間の事業ただ衆生利益の縁となり、仏法修行のたすけとなるのみらず、即ちこれ不思議解脱の妙用となるべし。

法華経に、治生産業も皆実相にそむかず、と説ける此の意なり。

解説

同じように仏法を信じ修行していても、それが世間の名利のための欲情であっては害になっても解脱の妙用は得られないと言う。

簡単にいえば仏法を利用して名声と肩書を得ようとすれば罪業の因縁となるであろうと言います。

『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫:絶版

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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