『無門関』第三則 倶胝竪指
本則口語訳
倶胝和尚さんは人に質問をされると、何時も指一本立てるだけであった。
そこに修行僧がいてそのお寺を訪れた人が「倶胝和尚さんはどんな指導をされるのかと」問うた。
修行僧は素直に和尚の真似をして指を立てた。
この話を聞いた倶胝和尚はその僧の指を斬り落としてしまった。
それで僧はその痛さに泣きなら手当をするために立ち去ろうとしたところ、
倶胝和尚はそれを呼び止め僧が振り返ると、指を一本立てた。
するとその僧は忽然として悟った。
倶胝和尚は臨終にあってお見舞いに来た僧たちに向かって「天竜の一指頭の禅を得て一生涯使ったが使い切れなかった。」と言って亡くなった。
説明
『無門関』は四十八則あり適当に取り上げているのですが、
禅の修行者が一則透過するのに何か月、何年とかかる公案を個人で週何則も考えるのは正直言ってきついです。
所で公案はどれも全てそうなのですが、まともに考えたり、文字に拘ると答えは出てきません。
本来は瞑想して公案と一体になって答えをだすのが本道でしょうが何時もソファーで考えています。
やはり気を付けるところは本則、無門の評語、頌提唱の三つに共通するところを見つけるところがポイントになります。
そこで考えた末、一指とは今、ここ、自己の象徴と考えるのである。
また「一生涯使った」ことに意味があり、何時でも何処でも指を立てるだけであった。
それは何時も使えるからであって、何処でも使えたからであった。
自己表現に便利で誰が見ても、何処で見ても、いつ見ても変化がないからである。
一指とは「一生涯使った」というように問われた時だけでなく二十四時間使っていたのである。
一指とは自己同一性の別名と考えると現代では解りよいかも知れない。
それでは何故修行僧の指を切断したのか。
それは当然の事であるが自己同一性は倶胝和尚の自身のものであり、
如何なる他者のものではあり得ないからである。
修行僧には修行僧のアイデンティティがあり真似事を切断したのである。
倶胝和尚が自己同一性を重要視したのには自らの苦い経験があった。
倶胝和尚がまだ若い時、山奥で一人で修行をしていたところへ突然尼僧が訪問してきた。
当時は笠を脱いで挨拶する習わしになっているのに、
見透かすように三度倶胝の周りを回って「一言え、しからば笠をのごう」と、失礼な態度にでた。
ところが開眼していない倶胝は一言も返すことが出えきなかった。
そうすると尼僧はすかさず帰途についた。
しかしもう空は暗くなっていて夜道はトラやクマが出てとても危険であったので、一泊するように勧めた。
すると再び「一言云え、しからば笠をのごう」と言った。
それでも倶胝は返す言葉が出なかった。
そして尼僧は去っていった。
さて倶胝はこのような体験から何を学んだのだろう。
それは尼僧の自己同一性を学んだのである。
何時いかなる時でも自己の行動に狂う所が無かったことである。
自己の正しいと考えることを曲げてまで妥協しなかったのである。
是こそ覚醒したすべての禅者のとる態度である。
禅道場で修行する修行者であれば知らない者は居ないだろうが、部外者である我々には解らないことである。
これは私の推測であるので間違っていたら勘弁してほしい。
それでは倶胝和尚がその僧の指を斬り落とした後の態度はいかがなものだろうか。
修行僧が指を切られて痛さに悶絶していたのに何故早く手当をしなかったのか。
痛さに悶絶していたとは、痛さと自己が一つに成った瞬間である。
自己を忘れて痛さに成りきっていたのである。
此の好機を見逃さなった倶胝和尚をたたえるべきである。
もし情けでもかけてしまえば不安に負けてしまうだろう。
そこで倶胝和尚があわてふためいてしまえば修行僧もあわてふためいてしまうだろう。
揺るぎない確信に基づいた倶胝和尚の行動は不動心という。
これこそ冷静であり周囲の状況に迷わないのを自己同一性と言う。
無門の評語の口語訳
倶胝も修行僧の悟りも指の上には無い、それが解れば天竜も倶胝も修行僧も一串にされるだろう。
解説
一串とは串にすべてが貫かれていることであり、行動に一貫性があり自己同一性を意味するのであると考えられるのである。
参照文献
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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