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『無門関』第二十六則 二僧巻簾

無門禅師の本則口語訳

法眼文益禅師は午前中の提唱を聞くために集まった修業僧を前にして、

竹のすだれに向かって手を上げ指をさした。

そこですかさず二僧は同じようにすだれを巻き上げた。

法眼は一得一失と言った。

解説

二人の僧が同時に同じように簾を巻き上げたのですが、

法眼は一人は認めもう一人には認めませんだ。

さてはて二人の僧の違いは何処にあったのでしょうか。

禅では与えることは奪うことであり、奪うことは与えることである。

この一得一失は奪って与えるとこに意味があるのです。

言葉を奪ってしまう殺人剣活人剣である。

そこで修業僧は大擬現前に追い込まれて覚醒するのである。

一得一失と言う二元論に陥っては結論は出てきません。

一度平等の世界に心を置かねばなりません。

平等の世界とは善とか悪、右とか左と言う分別心が起こらないところであります。

簾を上げるとは内と外の区別をするすだれを取り除くことを意味するのである。

ようするに内と外の二元論を超越するのである。

だからいくら言葉で考えても解決する問題ではないと言うのがこの公案である。

無門禅師の評価口語訳

さあ言え、誰が得で、誰が失か。

もしこの問いに一隻眼を得れば、

清涼国師が何故失敗したのか解るであろう。

それはそれで決して得失に拘って分別してはならない。

解説

無門禅師は評語で清涼国師と同じように、誰が得で誰が失かと問います。

それが解ったら分別心を超越したことを認めてあげようという。

さらに無門禅師は清涼国師を否定しながら肯定するのです。

これは最大限の褒め言葉であり禅の常套手段でもある。

「清涼国師が何故失敗したのか解るであろう。」と言うのは修業僧に向かって言った発言である。

ところが、それがそのまま清涼国師に対する誉め言葉でもあるのである。

「清涼国師が何故失敗したのか解るであろう。」と言う言葉が色んな意味を伝えているのである。

このように言葉を与えて奪い、奪っては与える働きが同時に作用しているのが解るでしょう。

それでは清涼国師は修業僧の指導に失敗したのか、それとも成功したのかわかりますか。

たしかに清涼国師が修業僧に言った言葉は無門禅師の言うように間違っているという意味で失敗なのです。

ところが無門禅師は清涼国師を褒めているところを見れば成功したと考えられます。

またこの公案が成功で無ければ『無門関』の一則に加えられることは無かったでしょう。

清涼国師の一得一失と言う言葉を失敗したと言いながら、いっぽうでは成功であると褒めているのです。

これは全く矛盾していると言えます。

失敗したことが成功であるとは言葉では理解出来ないでしょう。

ここに即非の理論、失敗即成功と言う式が成り立つのです。

だから無門禅師は「それはそれで決して得失に拘って分別してはならない。」というのです。

無門禅師は言葉に矛盾があるのは承知の上での評語なのです。

矛盾は矛盾していながら矛盾では無いというのです。

分別の無い平等の世界には矛盾が存在しない証明であります。

無門禅師の頌の口語訳

巻き上げれば大空は明明である。

それでも大空は我が宗には合わない。

空も全て放下すれば。

綿綿密密風を通ぜざらんには。

解説

簾を巻き上げれば空の世界は明らかであるとは、無心の世界と言うのである。

しかし禅宗ではそこに留まっていてはいけないと言い。

その空心も無心も全て放下すれば、

自由無碍の世界は今ここにあるではないかというのである。


参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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