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『無門関』第三十三則非心非仏

無門禅師の本則口語訳

馬祖にある僧が問うた。「仏とは何かと問うた」

すると馬祖が、「心でもなければ仏でもない」と言った。

解説

馬祖には「即心即仏」という公案もあるのですが、「非心非仏」とは全く正反対の言葉であります。

これは心と言う実体をどのように解釈するかによって答えもちがってくるのです。

心を知情意にわけるか、意識と無意識、心身一体と考えるか、意識と主体的行為に分けるかによって答えがちがってきます。

こんかいは心を意識と主体的行為に分けて考えてみましょう。

まず非心とは如何なる意味でしょうか、心が無いと言うことで、無心とか意識が働いていないと考えてください。

西田哲学で言えば、純粋経験で意識以前の感覚や知覚を言います。

また主客未分と言って見る自己と見られる対象が一体に成った状態を非心という。

主客とは意識的に見ること、考える自己であって、

客観とは見られるものや考える対象をいう。

だから意識せずに見たり、考えたりしなければ主客未分になります。

ところが主客未分と言っても具体的にはどのような状態を言うのか解りにくいと思います。

具体的には日常生活の行住坐臥をいい、行とは歩くこと、住とはとどまること。坐とは座ること、臥とは寝ることを主客未分状態という。

たしかに我々は行住坐臥すべてにおいて考えることはしません。

意識することなく、また迷うことはありません。

また我々の日常行為やスポーツでは何も考えずに手足を動かして行動します。

そこには主観とか客観などはもともと無いのである。

意識を排除してしまえばそれを主客未分と言いうのである。

ところが人間はどうしても考えなければ気が休まらないように思ってしまうようです。

その結果色々考えると迷ってしまうことになるのです。

ただし考えると言っても身体的行為の瞬間においては無意識状態であって、身体的行為が終わってから考えるのである。

ふつうには、考えてから人と話したり、自己の意志でもって行動を行うと思っているでしょうが、

会話の内容は予測できないと思います。

後からあの時ああ言えば良かったとか、あの言葉はまずかったと思うことがありませんか。

予想出来ないところに主客の対立が生じます。

自己の言葉や行動に自信があればそのような心配はありません。

たとえ、相手が気まずい思いをしたとしても、その言葉が相手のためになるのだという、自信があればよいのです。

他者と一体、主客未分と言うことは嫌われても他者のためであれば容認できるのです。

利己心のことを非心というのです。

無門禅師の頌口語訳

道で剣客に遭えば剣で応じよ。

詩人でなければ詩を語るな。

人に言葉で対するときは三分にせよ。

決して最後の一言は話すな。

説明

道で剣客に遭えば剣で応じよ。詩人でなければ詩を語るな。

これは主客一体を意味していて、他者の言行を予測できる他者ということである。

スポーツの好きな人と詩の話をしても心が通じないから他者に合わせて言葉を選べというのである。

人に言葉で対するときは三分にせよ。とは意見の合わない人には其れ以上話しても、対立が増すばかりになると言うのである。

決して最後の一言は話すな。とは嫌われてもあなたのために我慢しているのだとは言うな。

参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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