見出し画像

『無門関』第十則清税孤貧

無門禅師の本則口語訳

ある日、清税と言う僧が、曹山和尚に、

「私は孤貧な生活をしているので、どうか豊かな暮らしが出来るように助けてください」と言った。

そこで曹山和尚が「清税殿」と言った。

すると清税は「はい」と答えた。

それに対して曹山和尚は「美酒を三杯も飲んだその口で一滴も飲んでいないと言うのかね」と言った。

解説

この公案の答えは禅の修行者であればすぐにその問いの意味が解る易しいものなのです。

試しに僧に聞けば、まるで口を揃えたような答えが返ってくるでしょう。

このようなやさしい問いが公案として出される筈がないと考えることが必用なのです。

公案は事実の否定は即肯定という理論の理解が出来なければなりません。

清税は美酒を三杯も飲んだ事実を否定することによって何を肯定したのでしょうか。

予想通り孤貧な生活を肯定したのでした。

孤貧な生活をしているから美酒など飲んではいないと言うわけです。

ところが禅では孤貧な生活と言う意味は禅の高い境地を会得した僧に与えられる敬称なのです。

すこし混乱してきましたが清税は自慢したのです。

その清税の自慢を見抜いたのは無門禅師でした。

だから無門禅師は評語で次のように言います。

無門禅師の評語口語訳

清税は孤貧だと謙遜して言ったがその意図は何処にあるのか。

曹山和尚にとってはそのような清税の手の込んだまやかしは直ぐに見通していたのである。

では問うが清税が美酒を飲んだ証拠は何処にあるのか。

説明

曹山和尚の時代の修業僧は禅堂で文字通り孤貧な生活を送っていたようです、今は知りません。

そして孤貧な生活の意味は心の自由自在な境地を言います。

富も貧も自も他も捨て去った平等の妙地、それを孤貧と表現します。

しかしそのような高い境地をさらに忘れて平凡に生きるのが究極の生活なのです。

自慢したり人に認められることを期待しているようではまだまだと曹山和尚は言うのです。

ようするに曹山和尚は清税の境地を否定するわけです。

それでは清税が美酒を飲んだ証拠は何処にあるのかと言うのが問いです。

答えは無門禅師の本則の中に書かれているのです。

清税が「はい」と答えた、ここに清税が美酒を飲んだ証拠があるのです。

答えたこと自体が美酒を飲んだこととイコールなのです。

本則口語訳では「清税殿」とかきましたが元の表現では「税闍梨」で殿と同様で税闍梨とは僧に対する敬称なのです。

だから美酒お恵んでもらう立場には無いことを白状したのです。

ここまではどうにかたどり着くのですがここからが問題になります。

無門禅師の頌の口語訳

清税の貧は范丹の貧と同じだ。

心は項羽によく似ている。

食べ物は粗食だが、

富においては負ける者はいない。

解説

范丹とは昔の中国で極貧ながら満足な生活を送っていたという比較人物。

また項羽とは勇敢な武将のようです。

だから貧しくとも勇猛果敢な人であったのです。

そして周囲の人々に信頼され尊敬されていたのです。

しかしこれまでの孤貧と富においては負ける者はいないと言う表現には矛盾が有るようです。

期待され尊敬されることが悪いわけでは有りません。

自慢することが悪いのであって、期待され尊敬されることが悪いのではないのです。

行動に自信が無ければなりません、正しいことを正しいと信じなければならないのです。

だから清税が「はい」と答えたのは、尊敬されるとか、されないとかを超えているのです。

おなじ「はい」でも人格がおのずから現れるもので、その違いを見通さ無ければいけないのです。


参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?