『夢中問答』第三話:福は願わずして成就する
福は求めるものでは無く無欲こそ福きたると言うのが『夢中問答』の基本思想であることが解かります。
一見矛盾しているようですが、理論的に突き詰めてゆけば納得されるでしょう。
福も災いも原因があって結果は真理に従って生じることに間違いはないでしょう。
まず第三話に有漏、無漏という聞きなれない言葉がでてきますが、
漏とは煩悩の事で、有漏とは煩悩が有るある人の行為を言い、無漏とは煩悩が無い人の行為を言います。
例えば人に親切な行いを行ったとしても、福報を受ける人と、悪報を受ける人が居るのは何故かと思うでしょう。
その違いは有漏の行為と、無漏の行為によって結果に現れるのです。
親切な行いにも有漏と無漏が有ると言うことで有漏心でもって善行を行ったとすると災いの基に成り、
煩悩の無い人の善行は福報をもたらすと言うことです。
それでは有漏とは煩悩とはどのような心を言うのでしょうか。
夢窓国師が言うには福報を求めて行う親切には、貪欲がその裏に隠れているからそれを煩悩というのである。
煩悩のない純粋な行為とは見返りを求めない身命をいとわない矛盾の無い行いをいいます。
煩悩は自己に意識されることは無いけれども行為として表現されているから他者にとっては迷惑であることを知らなければなりません。
しかしこの他者の迷惑を意識して親切をやめてしまうことも迷いであるから考えずして親切を行うことが肝要である。
『夢中問答第一回幸福とは』に出てきた須達夫妻のように請われたら惜しみなくほどこすことを無償の善行と言う。
請われないのに施すことは何か意図があると他者は直感的に感じていて親切とは受け取らないのである。
くれぐれもそのような因果関係を考えず無心で対応することである。
ただ無償の善行と言っても自己犠牲を伴うことではなく自利即他利でなければ成らないと教えている。
ここで自利即他利という意味は自己は自然の中に生かされており、また自然に働きかける相互関係にあることを知ることである。
それは自利なしに他利は存在せず、他利なしに自利もないからである。
自と他を対立するものとして考えるのではなく、共に自然の中の一員であることを知れば利とは共有のものである。
それにも関われず格差は厳然として存在するが自然は平等に向かって進行しているのである。
それを享受するかしないは本人次第ということであってご存知のように現代でも無数の無償の知的資産を誰でも手にすることは可能である。
参照
『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫:絶版
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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