『無門関』第十八則 洞山三斤
本則口語訳
洞山老師に一人の修行僧が、「仏とは何ですか」問うた。
そると、すかさず洞山は「麻三斤」と答えた。
ここで仏とは何かと言う問いは学問的な答えを期待しているのではなく、
修行僧が悟りとはどのような境地なのでしょうかと問うたのである。
所が洞山老師は目の前で作業中の麻を指さして「麻三斤」と言っただけであった。
「麻三斤」とは今羽織っている作業用の衣服一人分の麻布の重さである。
麻とは現在で言えば糸の元に成る材料で植物の繊維の名前である。
当時は貴重なもので自給自足によって作られていたのである。
ここで修行と作業は二つであっても一つであると考えることは決して間違ってはいないのである。
「麻三斤」は修行と作業とは対立するものでは無くそれぞれが多であり一である。
しかし理性で考えては二項対立であって、主客未分の状態ではないのである。
『無門関』は全部で四十八則であるが一つでもあるのである。
洞山老師はとてもやさしい公案を出したものであった。
何も隠すことなく、ありのまま白状してしまったものかと故人は訝っていた。
人間は秘密を知りたがるものであるが、ありのままの心の内は無視をしてしまうようだ。
言葉「麻三斤」に拘って考えていては心境は遠く離れてしまうだろう。
花でも山でも何でも、主客未分の状態になれば見えてくるのである。
「無門老師の評語ー口語訳」
洞山老師は、はまぐり禅を修行したのであろうか、貝の口を開いて内臓を全て見せてしまった。
さてはて洞山老師の内臓の何を見たのか当てて観てはどうか。
無門老師の評語はヒントであり、傷口を大きく開けてしまったようだ。
回復不能まで傷口を大きく開けてしまった「麻三斤」であるが、
貝が口を開ける前の内臓の動きである。
「無門老師の頌ー口語訳」
さらけ出した「麻三斤」。
言葉はやさしく、その意味はさらにやさしい。
思量分別する人は。
すなわち是非のひとである。
無門老師にとっては洞山老師の「麻三斤」はとても解りやすい答えであるというのである。
たった一言で洞山老師の境智が解ると言うのである。
それなのに言葉でもって考えるから解らなくなるのである。
参考文献
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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