時代掌編 | 襲う風

時代掌編 | 襲う風

 ふたつめの谷に下りると、小さな沼がある。  水草がびっしりとからまり浮いた沼は黒く淀み、あたりは湿った大気に包まれている。  飯田の山をようよう越えてきた者も、流れのない水で汗を洗う気にはなれない。少しのあいだ休みを取り、次の坂を登ってゆくだけである。  谷底には、風ひとつなかった。  平井伝之助は、黒いうろを見せて転がっている倒木に腰を下ろした。額の汗を拭いながら、木々の間の空を見あげる。  周囲の暗さのせいか、秋の空は果てしなく高く、濃い青に光り輝いている。白い雲が、

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時代掌編 | 七夕情景

時代掌編 | 七夕情景

 表に出ると、ざ、と音が鳴り、おりくは思わず腰をかがめた。  途端に、 「なにをびくびくしているんだい!日が暮れちまう。さっさと行っておいで」  おつねの小言が飛んできた。  さっきまで仕事場にいたのが、いつの間にか板敷に立っている。 「はいっ」  答えて戸を閉めると、おりくは数歩駆けた。  空をふり仰ぐ。  風を受けた竹が、おりくを脅そうと、もう一度騒々しい葉擦れの音をたてた。 「………」  首をふり、おりくは走った。  どの角を折れても、空の青を隠した七夕竹が家々の屋根上

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時代掌編 | 橋姫

時代掌編 | 橋姫

 時の鐘が五ツを告げると、人通りは急に途絶えた。  春とは言え、妙に底冷えのする夜だった。  小さなくしゃみをひとつしたら、性質の悪い胴震いがきた。 「風邪かい、政さん」  橋の半ほどまで客を送ってきたお蓮が言う。帯を直している。 「なに、大したことはねえ」  政二は鼻水をすすった。 「ねぐらに帰って、熱いのでもひっかければ、明日には良くなっているだろうよ。お前たちのように、この寒空に脚を広げているわけじゃあねえからな」  お蓮が含み笑いをもらした。 「あたしらだって、あった

時代掌編 | 相棒

時代掌編 | 相棒

 どこかで見た男だ。  盆をはさんで向こうから四人目。深くくぼんだ眼窩の底、作り物めいた動きの乏しい瞳で壺を睨んでいる。だらしなく開いた懐から、痩せたあばらがのぞいている。  宇吉は男の横顔を見ていた。  どこかで会った男だ。ただ、それがどこなのか思い出せない………。  賭場の外での知り合いなら、気づかれないほうが良い。所詮、今夜はつきがないのだ。  壺が上げられたのを潮に、宇吉は座を下りた。  草履をはいたところで、騒ぎは起きた。 「何を言いやがる!この野郎っ」  振り返る

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時代掌編 | 橋の男

時代掌編 | 橋の男

 ああ。そのとおりだ。  俺と杢が引きあげたときには、あいつはもう息をしていなかったよ。  まあ、そんなところに突っ立っていねえで、こちらに入りな。それを、その隅にどかして、座ったらどうだね、構わねえから。  こんな出がらしの茶しか出せねえが、なあに、あったかいのが一番だ。  それで?………ああ、あいつかい。  人だかりがするので、そこを閉めて介抱したのだが、ぴくりとも動かなかった。こう、白く眼を剥いてな。腹を押せば水は吐くが、生きた奴の吐きかたじゃあねえ。お前さんも見たこと

時代掌編 | 指

時代掌編 | 指

「お前がそのつもりなら、俺は構わねえぜ」  清次は言った。 「去り状でもなんでも書いてやろうじゃあねえか」  あぐらを解き立ちあがったのは、紙を探そうというのではない。  喉が渇いていた。  昨夜の酒が残っている。  仲町の裏通りで小さな飲み屋をやっているお夏とは、足かけ二年になる。昨夜もお夏の店の奥に泊り、いつものように朝帰りをした。仕事にも出ぬまま、陽が傾くころに起きてみると、女房のおはなが薄暗い部屋の隅、膝を抱えてこちらを見ていた。  それからいつもの愁嘆場だ。  瓶の

時代掌編 | 犬、雷を怖づ

時代掌編 | 犬、雷を怖づ

 大八車の音かと思った。  高橋のほうから油屋の角を折れ、この町内に近づいてくる………。  まるの唸り声に、お直は顔を上げた。  いつの間にか、細く開けた障子窓の外が暗くなっていた。八ツを過ぎたばかりだというのに、黒ずんだ雲が北の空に渦を巻いている。仕立物に一心になっていたので、部屋が暗くなっていることにも気づかなかった。  戸の隙間から濡れた鼻先を突っこんで、まるが鳴く。それは悲鳴に近い。 「はい、はい」  犬に答え、お直は膝の上の着物を脇に片づけた。草履をはく。  戸を開

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天川の行者

天川の行者

たたなづく青垣(あをがき)…ここ吉野(ゑしの)の奥、天川(てんかわ)の地に人が住み始めたのはいつごろだろうか? 車谷(くるまだに)の部落の外れに行者行甚(こうじん)の結ぶ庵(いおり)があった。 庵といっても、板を「人字」に寄り合わせただけの粗末なもので、まるで拝む手のひらのようなので「拝み小屋」と地の人が呼ぶものだった。 「ああん、あん、こうじんさまぁ」 うら若い女の喘ぐ声が、新緑の葉擦れの音に交じって聞こえてくる。 どうやら件(くだん)の「拝み小屋」の中から聞こえるようだ

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時代掌編 | むこうぎし

時代掌編 | むこうぎし

 ついっ、と鼻先をかすめたツバメに気を取られたのがいけなかった。  コテを手に、思わず伸ばした背がつりあいを崩した。中塗りしている土蔵の壁にすがるものはなく、俺は足場から落っこちた。  頭をかすめたのは、餓鬼の時分から足場の上で暮らしている左官が、ツバメ一羽で落ちる間抜けさ加減、女房のおきんとまだ小さい栄太のことだった。  ずどん、ときて俺は俺でなくなった。  ………気持ちの良い春の日に、高いところから落ちる馬鹿、という奴だ。足の一、二本はいかれたかもしれねえな。  まず

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時代掌編 | 岬の馬

時代掌編 | 岬の馬

 楢の林を抜け、背の高い草地に出たところで、先に立っていた徒士の姿が失せた。  誰かが舌打ちをした。  間の抜けた雑兵が草に足を取られ、転びでもしたのだろう。そのように思える消えかただった。霧雨に濡れながら夜を徹して山を下ってきた、その疲れが一隊の注意を散漫にさせていた。 「馬鹿者が」  言い、野放図に草地に馬を進めた男がくらりと体勢をくずした。そのまま木偶のように落馬する。男の喉笛を矢が突き破っている。  徒士が悲鳴をあげた。  気がつくと、草地のぐるりに黒々とした兵の姿が