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剣のこころ【掌編小説】

 坂口仁兵衛が初めてその男を訪れたのは、二十歳をいくつかすぎた夏のことであった。
 磨きぬいたわが剣の腕前を、いまこそ試すべしと、仁兵衛が選んだその相手は、関東一円に並ぶものなしと謳われた剣術家である。名を、柳田止水といった。彼はある村に田畑を借りて娘とふたりで暮らしていた。
 仁兵衛が行くと、日に焼けた壮年の男が縁側に肘をついて寝そべり、娘に脚を揉ませて瓜を食っていた。
「柳田止水殿とお見受けする。一手ご指南ねがいたし」
 止水は瓜の種を吐いて立った。足もとから拾いあげたのは、手鎌である。鎖鎌のような特殊なものでなく、稲を刈るのに用いるようなごく当たり前の道具のほうだ。
 仁兵衛は、彼が構えをとるのを待たず、えいと気合を込めて抜き打ちざま斬りかかった。
 一合、二合と続けて打ちかかるが、子どもの手遊びの如くたやすく外へ流される。いきりたってなにくそと踏み出せば、くるりと手首をねじられ、あっと思った時には刀が手を離れた。
 背中に、どっと冷汗が湧いた。
 一合目を流された時に、勝負は決していたのだ。いまになって気付き、同時に、そこで斬りこまれたなら命はなかったはずだとわかったのである。
 止水はぽいと鎌を放り捨てた。どかりと縁側に腰をおろした。
「瓜はいかがかな」
 何事もなかったかのように、自らの隣を示して言った。
 仁兵衛は地に身を投げ出し、額をすりつけた。
「坂口仁兵衛と申しまする。どうか、弟子に」
「聞き覚えがある。ずいぶん斬っておるらしいの」
「いかに多く敵を斬ったところで、止水殿には遠く及びませなんだ」
 止水は呵呵と笑った。
「斬ればよいというものでもなかろ」
 さらにさらに小さく土にへばりついた仁兵衛に、彼はこう告げた。
「人を斬らず、己を磨け。天意を得たらまた来るがよい」

 仁兵衛が二度目に彼を訪れたのは、三年が過ぎた春のことであった。
 止水は鋤を持って田の土を起こしていた。
 見るからに汚れ、髪も髭もぼうぼうに伸ばした仁兵衛の姿をみとめて彼は
「早いな」
と言った。
 仁兵衛は抜き身を引っさげ、いまにも襲いかからんと止水を凝視していたが、その止水が肩に鋤をかついですたすたと近づいてくるのを見るうち、なんともいえぬおそろしさにかられ、目をそむけ膝をついてうずくまってしまった。
「いかがした」
「とても、かないませぬ」
「ふむ」
 止水は土の上にどかりと胡坐をかいて座った。
「おぬし、この三年なにをしておった」
「山にこもりまして」
「それで、なにをした」
「人を斬るなと仰せに従い、けものを相手にしておりました。鴉を千ばかり、猪を十二ばかり、熊をふたつ、斬りました」
 聞くが早いか止水は膝を打って大笑いした。
「それは、こわいな」
 全身にびっしょり汗をかき、仁兵衛は息もつけず、ただ止水の圧倒的な存在に身を固くして聞き入った。
「おぬしに足りぬのは、笑いよ。情けよ。鬼のままでは天意は聞けぬ」
 小さく小さくうずくまった仁兵衛に、彼はこう告げた。
「おぬしの刀はわしが預かる。なにひとつ斬ってはならぬ。己を磨け。天意を得たら再びまみえようぞ」

 仁兵衛が最後に彼を訪れたのは、五年が過ぎた晩秋のことであった。
 雪のちらつく夕暮れ、仁兵衛が戸をたたくと、子を連れた娘が出てきた。
「お待ちしておりました。父に会ってやってくださりませ」
 止水は伏せっていた。
 深々と頭を垂れて挨拶した仁兵衛に、布団に身を起こした止水は
「遅かったな」
と言った。
「あの刀は、もう要りませぬ。いかようにも処分してくだされ」
 止水はフウフウと吐息を逃がすように笑った。
「ありゃ売ってしもうた。おかげで娘の嫁入りの支度ができた」
 仁兵衛はおもわず笑った。
「それは、なによりのことでございました」
「さよう」
 なごやかに笑いあったのち、止水は、枕もとにきちんと並べられた大小の刀を指し示した。
「かわりに、わしのをやろう。持って行け」
 仁兵衛はおどろいてかぶりをふった。
「いただけませぬ。手前には分不相応にござります」
「やるといったら、やるのだ、わしは死ぬる身ゆえ、もう要らぬ」
「手前が持てば、止水殿を斬って取ったかと思われましょう。あなたさまの名が落ちまする」
「ほう、なるほど」
 止水は疲れたか、ごろりと布団に寝転がった。
「では名もやろう。わしの一字を取って、仁水と名乗れ」
 仁兵衛は感極まって泣き伏した。
「なんという、ありがたきことか。なれど死なれては恩を返せませぬ」
 目を閉じて仁兵衛の嗚咽を聞き、止水はこう告げた。
「おのれの剣のこころを伝えてくれる者があるというのは、なかなかに得がたき幸せぞ」

 その夜遅く、柳田止水は逝った。
 坂口仁兵衛あらため坂口仁水となった剣客は、師と同じく誰からの挑戦も気楽に受けた。そして誰一人として斬らなかった。
「師のこころは、天のこころじゃ。天が斬るなと言えば、斬らぬ」
 あとになって理由を聞いたものにそう語ったという。

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