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お千鶴さん事件帖「花火」第三話①/3 無料試し読み

 夜空に一筋の閃光が立ち昇る。
 江戸っ子が大好きな恒例の両国川開きの大花火が打ち上げられていた。歓声とどよめきが渦巻く。その中、ひときわ大きな「玉屋」「玉屋」の呼び声が続く。
 またドーンという地響きと火薬の匂い。
 全ての者の目が天に咲く見事な菊、牡丹、柳の花火に向けられる。大人も子供も呆けたように口を開けるだけだ。正気に戻ると「玉屋」の声が聞こえてくる。
 玉屋と鍵屋が競って大花火を打ち上げていた時期は三十数年に及ぶ。天保十四年、玉屋が出した火事による刑で江戸所払いとなり、やがて消滅した。いつ時知らず、「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋といわぬ情(錠)なし」の川柳が流行る。
 相変わらず人々の気配は止まないが、ざわめきが次第に小さくなる。ゆっくり時が流れる。終わったような、切なさ。
 ぞろぞろと帰り支度を始めるのか、人の群れが薄く広がってゆく。そしてついに、しんと静まり返り、いつも以上に深い闇が街を覆う。
 花火に替わって、月が雲間からそろりと顔を覗かせる。
 江戸で随一の高さを誇る住吉の火の見櫓の真下を、その頼りなげな明かりがぼんやりと照らし始めた。
 その時だった。
 上物の着物をまとい地面にたたきつけられた格好で、うつ伏せの娘の死体が浮かび上がる。
 真っ赤な血がまわりを染めているのが、夜目にもはっきりと映る。血はてらてらと鈍く光り妙に、なまめかしくもあった。
 頭は酷く割れ、顔は横向きだが判別し難いほどの傷だ。草履の片方だけが側に脱げ落ちているが、他に持ち物らしきものは見当たらない。
 そこに、むしろを抱えた二人の岡っ引がゆっくりと近付く。傍らで同心が腕組みをしながら突っ立つが、顔はそむけている。
 櫓の周囲に広がる火除け地は、伸び放題の草を刈り取ってから、間がたっていない。
 その上を短冊か紙が、千切れちぎれになって舞っていた。また、いくつかは地に含まれた露でしっとりぬれて貼り付いていた。
 やや遠巻きに黒山の人盛りができ始めた。再び喧騒が蘇る。
人々は火の見櫓の一番高い所と、地面を行ったり来たり指差しては眉をひそめ隣の者と、ささやき合う。何人かの岡っ引は死体検分よりも、多くの野次馬を、この場から遠ざけることに忙しい。
 辺りの人いきれをかきまぜるように、生暖かい風が時折吹きぬける。

(一)
 ここ深川六軒掘町は、隅田川にかかる新大橋をちょいと東へ渡った所にある。
小名木川から引かれた堀、六軒堀の水は、まだ温いに違いない。悔しいが大勢の人たちが花火見物の余韻に頬を赤く染めているのは、長屋の中にいてもわかる。深川は千鶴の体の一部と言ってもいいぐらいなのだから。
「おまえさん、檜山様がおいでですよ」
 紺地に朝顔の柄の浴衣を着た千鶴が居間から亭主の橋蔵を呼んだ。
 昨夜からの雨も止み、今晩の花火を夫婦で楽しみにしていたのに、こんなときに限って亭主の橋蔵は朝から頭が痛いと臥せっていたのだ。
 夏風邪をこじらせたのかもしれない。おでこに乗せておいた手ぬぐいが、脇にずれたので、取り上げて元通りに乗せ直した。手ぬぐいの温もりから、熱は下がり始めたようだと安堵する。もう一度声をかけると、ふーっという頼りない声を発し女房の千鶴へ、とぼんやり目を開く。橋蔵は自分で、手ぬぐいをまぶたの上まで引き下げて目隠しすると、めんどうくさそうに言った。
「出かけて居ない。今夜は帰らない」
 千鶴は立ち上がり、あわててふすまを閉め土間に続く居間にもどった。
 この家の勝手知ったる同心の檜山庄之助は、上がり框にすっくと背筋を伸ばし腰を下ろしていた。
 橋蔵の本職は床屋で、四十歳に手がかかろうかという親父だが子はいない。北の定町廻り同心の檜山に仕え岡っ引として勤めてもいる。大きな事件のときには、同心から余分の手当てを頂き、橋蔵が下っ引をさらに臨時で雇うこともある。そういう者たちも日頃は本職に精を出している。
 千鶴の髪結いの腕もなかなかいいと深川では評判を得ている。しかしそれ以上に近頃では、千鶴自身をも驚かせた、隠し技も持っているのだ。
 檜山は別に怒った風でもなく、すましている。千鶴は困り果てたように弁解した。
「もう、聞こえてしまいましたでしょう。本当に具合が悪いらしくて、ずっと臥せっているんです。申し訳ありません」
「調子の悪そうな声でしたね。今日のところは私一人で、仏さんの検分に行ってくるので。後で詳しいことを知らせます、では。ゆっくり養生してくださいよ、橋蔵親分」
 最後だけ声を張り上げ、いつものように馬鹿丁寧な口調で言った。
「事件ですか?」
 帰ろうとする檜山の後ろ姿に向かい、千鶴は居住まいを正し声をかけた。興味津々に身を乗り出して話を聞こうというわけだ。
 ここ数件の事件で、素人である千鶴の意見が御用の解決に役立ったことがあり、今度も寝込んでいる亭主の役に少しでも立つかもしれないと思ってのことだった。
 千鶴の隠し技は事件を解く推察にあった。事の始まりは、幼い子の関わった事件を檜山よりも先に解いたことだった。女子供と一括りにされるのには慣れているが、檜山の千鶴を見る目の色があの日以来良い意味で変わるのに気付いた。その後内々には知られるようになってしまった、これら御用の件に口出しする千鶴に対して橋蔵は少し機嫌が悪い。
「火の見櫓から飛び降りた自害のようなのだ。見た者が幾人もいるから、きっと事件じゃないよ。お千鶴さんのご明察も今度ばかりはねえ、聞かれないと思う」
 三十前の未だ独り身の檜山は振り返りながら話し、にやりと意味有りげに笑う。肩透かしをくらった千鶴に、「では」と再び踵を返して背を向けた。
 千鶴は橋蔵より十も年若いが、それよりも檜山はまだ二歳も若い。もちろん侍であり身分が違うのだが、微笑んだ顔が年齢よりも、ずっと若々しく見える。しばしば弟のようにかわいらしくも、ときには憎らしくも思えるのだ。
 橋蔵の食欲は無さそうだったが、握り飯なら食べられるかもしれないと思い、お櫃の中を覗きに土間の勝手場へ軽々と降りた。
 すると表でいさかいをしているような大きな声が聞こえる。檜山の声のようだったので、勢いよく戸を引いてみた。
 二十歳すぎの町人姿の若造が、へべれけに酔ってこともあろうに檜山にからんでいるように見えた。
「一緒に飲みませんか? 旦那。お誘い申し上げてるだけでしょうが。人聞きの悪い。誰が酔っ払ってからんでいるなんて……そんな酔ってませんて」
 若造は足をふらふらさせながら、ついには檜山にしなだれかかっている。
「しっかりしなさい」などと檜山は酔っ払いを支えながらなだめている。
 世の中が平穏だからと言って、町人が侍にそんな振る舞いをするなんてもってのほかとばかりに、千鶴はその若造を引き離そうと歩み寄った。
 檜山はどうも腕にはからきし覚えの無い、お侍の三男坊であり、気も弱いのだろうと千鶴は見ている。腕っ節は橋蔵の方が頼もしいぐらいだ。本人に言わせると、気が弱いのではなく、気が優しいのだという。千鶴は弟を守る姉さんの気分になっていた。
「ちょっと、そこのお若い方。お酒に飲まれるんじゃありませんよ。優しいお侍さんだから助かってるんですよ。早く、あっちへお行きなさい! お行儀が悪いですねえ。わたしは岡っ引橋蔵の女房、こちらは檜山の旦那ですよ。そちらさんはどなた様ですか?」
「あっしは、伝七と申しやす。ちょっと、いい気分なだけでね。可愛い顔のわりに、おっかないよお。おお、おっかない。行くよ。行きますよ。旦那、今度飲みに行きましょうや。もち、おごりますからねえ。旦那は死んだ兄貴にうりふたつなんだよなあ。世の中にはそっくりな人が三人いるってえもんだ。たまげたぜ、旦那はそのうちのお一人だね」
 「ひっく」と大きなしゃっくりを一つ上げて若造が通りすぎた。
 振り返ってまで「おごりますよ」と、まだ景気のいいことを言いながらご機嫌な様子。ろ組の町火消しの法被を羽織っているのがよく目立っていた。こんなに迷惑な町火消しは少ないのだが、と妙に印象に残った。
「お千鶴さんって、見かけによらずにおっかないのだね。というか、最近変ってきましたよ。考えていることと行いが一致するようになったような。伸び伸びしていいです。でも助かった、自害の場に急がないと」
 と、先の若造と似たようなことを言っている。きっと、橋蔵には嫌な顔をされる。でもこれが本当の自分なのだと千鶴は思うのだ。
 檜山がまた「では」と大きく手を振り歩き出したのを、当然のごとく千鶴も後を追った。
 檜山は長身なので、千鶴は追いつくために早足というより半ば駆けた。あっ、握り飯を作るところだったのに、と橋蔵の顔が頭をかすめた。事件だと聞くと、矢も盾もたまらなくなるのが悪い癖、と自分でも承知している。すぐ戻るからと、胸の中で橋蔵に頭を下げた。
 めったに足を運ぶ所ではないが、この火の見櫓は、貯木場に近い住吉にあった。千鶴たちが住む深川六軒堀から北東に四半時(三十分)ほどの距離にある。檜山は、他の同心達と同様に、深川から隅田川を反対の西側に越えた八丁堀に住まいしている。
 櫓一帯は既に異様な雰囲気に包まれていた。その渦中へと檜山の後を追いながら歩む。とがめるような叫び声やら、人々のざわめきが地響きのように重なり合い、ただやかましかった。そのうち、「もう、帰った、帰った。見世物じゃない」と言う誰かの声がはっきりと聞き取れるぐらいに近付いた。
 さらに真っ黒に人だかりがしている中を分け入るように進むと、先に着いた同心や岡っ引が声を上げ、野次馬連中を外へ押し出している様がまず目に飛び込んできた。
「御用の筋だから、通しておくれ」
 常になく、檜山まで大声を張り上げた。我を忘れるぐらいの喧騒なのだ。そのお陰か、わずかにできた隙間に千鶴も続いて割り込む。
 江戸でも一、二の高さを誇る櫓(約十五メートル)から、か弱い女が飛び降りたらひとたまりもない。千鶴は大量の血だまりを想像するだけで眩暈を感じた。しかし死体までおよそ四間(七メートル程)の距離で、まだ立つことができている。これでも以前よりは、血への臆病さが弱まっているかもしれないと感じられた。慣れなのかもしれない。
「お千鶴ちゃん、またお千鶴ちゃんかい? だめだよ、ここは女子供のいるところじゃないぜ。どうせまた、血を見てひっくり返るんでござろう?」
 橋蔵とは気の合わない、同心の片岡が目をつりあげて、千鶴を見つけるやいなや言い捨てた。その言い分は決して間違ってはいないのだが、千鶴は気にいらない。橋蔵の影で事件のあれこれに口を出していることが片岡にもばれている。正しいことを忠告して、お上の役に立っているのだからいいじゃないか、と常日頃から片岡にはむしゃくしゃすることがたまっていた。それはそれとして、檜山の後ろに隠れて小声でささやいた。
「だいぶ慣れてきたとはいえ、仏さんをまともに見ることは、まだ、できないわ。くらくらしてきました。でも、ここからでも着物の柄がおぼろに見えるんです。あの着物はたぶん、わたしの知っている娘さんです……」
 言いながら、体を折り曲げて吐きそうな体勢を取り、こみ上げる唾液を呑み込んだ。
「そうなると、親分の代理ではなくて、身元を知らせてもらわなくちゃあなりませんね。お千鶴さん、気をしっかり持ってくださいよ」
 檜山は表情を引き締め、千鶴の手を強く引っ張り、片岡の前をこれみよがしに横切る。こんなことは初めてだ。
「では、身元の調べです」
 と、片岡にきっぱりと告げた。それからさらに千鶴を死体から二間(四メートル弱)ほどにまで近づけた。
「可哀相に、なんてこと」と、思わず声に出した。
 一目見るなり、ついに千鶴はよろよろとその場にしゃがみこんでしまった。
「頭が割れちまって顔が皆目わからねえじゃないか」
 死体にかけたむしろをまためくっては、数人の岡っ引きや同心が頭を突き合わせ首をひねっている。そのうちの一人の声が耳に入る。
「相当ひどいなあ。まっさかさまに落ちて、櫓の底の裾に激しく打ち付けてから地上でもう一度たたきつけられたのだろう。脊椎、頭、全身打撲。若い娘さんのような身なりだなあ」
 死体を見下ろしている檜山が倒れ込んでいる千鶴に顔を向けて、続きの言葉を促すように顎を上げた。
「あ、あれは小間物屋さんのお咲ちゃんです。ここからでも首の後ろに二つほくろが見えますから、珍しいので間違いありません……。着物の憶えも確かです。十日程前お店に髪結いに行ったときにね、許婚の清太郎さんと歌舞伎を見に行くとき、こっちの小袖がいいかしら、あっちの小袖がいいかしらって、相談されましたから。この小袖がお似合いですよって薦めたので、よく覚えているんです。楽しみにしていたっていうのに、なんて姿に……」
 千鶴はこみあげる涙をこらえるために両手を地に着けた姿勢のまま、変わり果てた死体から目を背けた。その視線の先に落ちていた見覚えのあるかんざしを拾い上げ、檜山に指し示した。
「ほら、お咲ちゃんのかんざしに間違いありません」
 それから檜山の顔をすがるように見つめた。ますます本人であることが固まってくるのが急に怖くなったからだ。檜山はかんざしを受け取り懐紙に包んで仕舞いながら言った。
「器量よしで有名な、あの小町娘が、なぜこんなことに。親御さんが、一ヵ月ほど前に亡くなったのをたいそう気に病んでいた、という噂で持ちきりだったが、それを苦にしたのだろうか」
 そうつぶやくと、顎に手をやりながら考え込んでいる。身元がわかったので、自害の訳へと調べは移っていく。
 咲の父親は心の臓の病であっけない死に際だったそうだ。ただ、一番上の兄がしっかり者で店をよく切り盛りしている、というのが噂の続きだった。家業には心配なさそうだというのが救いだ。
「そりゃ、そうでしょうが。私はやっぱり解せませんね。お咲ちゃんは、大きな木綿問屋の一人息子である清太郎さんという立派な方に見初められて、祝言まで間近ということでした。そりゃあ、お父さんのことは心痛でしょうが、そのことで自害したりするもんでしょうか」
 でしゃばりすぎたかと後悔したが、言わずにいられなかった。檜山も納得できない様子で首をかしげながら神妙に聞いている。
 それから「では」と、周辺のいつもの採取に取り掛かることに決めたようだった。まだ、事件とは限らなくても、それが役に立つのか立たないのかわからなくても、地道な作業を黙々と一人努力する男なのだ。今ではこの作業こそが檜山の専門だと思い込んでいる同僚までいる。
火の見櫓の下の日除け地は、長く伸びきった草で覆われていたのが、刈り取られ見通しが良くなっていた。月毎に掃除されるのだ。それでも所々に気の早い草が我先にと宙で揺れている。檜山は集めた一つ一つを吟味したり仕分けたりする作業に没頭していた。屑にしか見えない、飛ばされてきた紙切れまで拾い集めている。千鶴は自分が持ち合わせていない檜山の細やかさを遠目で見守った。
 懐から紙が尽きることなく出てくる様子が不思議でもある。取り出した懐紙に採取したものを丁寧にはさんでから再び懐へと大事に仕舞っていた。それらは盆に規則正しく並べられ同心詰所内に錠をかけて大切に保管されるそうだ。
「お千鶴さんの『解せない』が出始めたら、事件かもしれない」
 視線を感じたのか、あらかた仕事を終えたからか、いつものおだやかな表情で話しかけてきた。千鶴は檜山に微笑みを返したが、すぐに別なところから冷水を浴びせられた。
「お門違いでござるな。三人もの男達が、娘の飛び降りるところを目にしている、これ以上確かなことがあるものか。無駄なことをするもんじゃあ、ありませんよ」
 隣で立ち聞きしていた片岡は勝ち誇ったように言い、「ちっ」と最後に舌打ちをした。

(二)
 翌朝、千鶴は重湯を炊いて朝げの支度をしていると、橋蔵が、かまどの近くにやってきて、「いい匂いだ」とだけ言って土間の奥へ通り過ぎた。橋蔵の顔色はすっかり好転したように見え、ほっとする。飯の香りを含んだ湯気が開け放した腰高障子を抜け表へ吸い込まれる。
 土間の奥に三畳ほどの広めの勝手場がある。ここらの長屋の中ではこの一軒だけが特別の作りで、土間の奥にさらに髪結いのための店である仕事部屋が続いている。ふっと手を止めて覗くと、橋蔵は店に置いてある袢纏を取り上げ羽織ろうとしていた。
「おまえさん、その前に汗を拭いましょうね」
 もうじき目覚めるだろうと、お湯をわかしてあった。
袢纏を受け取って、着物を脱ぐのを手伝う。熱で汗をかいた体を熱くしぼった手ぬぐいで何度もふいてやる。元来丈夫な性質で、寝込むのは珍しいことだった。
「鬼の霍乱も、たまにはいいもんだなあ」
 肩を出して半裸になった橋蔵はまんざらでもない満足の声を上げた。それから気持ちよさ気に両目を閉じるのを「たまに、がいいんですよ」と返事しながら、ちらりと覗き込む。
 橋蔵は少し顔を赤らめて続けた。
「出合った頃なあ、おれは夫婦になる話は断られると思っていた。十も若くて、器量よしだと評判だったんだから。それにしてもおれは、きつねにでも化かされているような塩梅だったなあ。お千鶴は今までに会った娘たちとは全然違っていたから」
「なに、おっしゃっているのですか? 照れますねえ。橋蔵親分さんだって、あの頃既にみんなから慕われていました。こんな立派な家を借りられたのもおまえさんの人徳ですもの。わたしは果報者ですよ」
 先ほど米のぬか汁を、まいたばかりの自慢の小さな庭は青々としている。
「本当の親がいないことを引け目に感じているんじゃないか? ずっと聞きたいと思っていたんだ。きっとそのうち、本当の両親を探して出してやるからな」
 橋蔵は人並み以上に忙しい合間をぬって方々に聞き込み済みであることを千鶴は近所のおかみさんから聞いて知っている。しかし、はかばかしい報せは無かった。
「いいんです、おまえさん。お気持ちだけでうれしいんですよ。それに育ての両親だけで充分なんですから、引け目に思ったことなど一度もありません」
 体を拭き終え、しばらくたっても橋蔵はすっかり上機嫌のまま尋ねた。
「それで、火の見櫓からの身投げの件はどうだったんだ? 血を見て気絶しなかったかい?」
 着物を着付けながら肩越しに、千鶴へと振り返り歯を覗かせて笑った。
「なんとか今回は堪えることができたのです。腰は抜けましたけど、気は確か……」
 こっそり出掛けたつもりが、やはりばれていたいたことに気後れしつつ、千鶴は続けた。
「もし、具合がよくなったようでしたら、三人が自害の様子をたまたま見ていたと言う話を詳しく聞いてきてほしいのです。ちゃんと身元を確かめてきましたから」
「女岡っ引に仕える下っ引になりそうだな」
 身づくろいをしながら橋蔵は、一瞬曇りかけた表情を解いて「まあいいかっ」と小さく言った。
 紙切れに書いた所書きを橋蔵に手渡す。
 千鶴は橋蔵と夫婦になってから橋蔵に髪結いを習い、今度は御用の仕事まで手伝えるようになったことがうれしくて仕方がない。ときどき橋蔵の表情が曇ることには目をつぶる。そのうちにわかってくれる、と勝手に信じていた。
 回復している様子に気をよくして重湯を食べさせるなど、かいがいしく世話をした。病人を放っておいた昨夜の罪滅ぼしの気持ちも働いている。
 片岡から聞いた三人の話によると、櫓近くの船宿の二階にいたそうだ。
両国橋界隈に花火を見に行けば、押すな押すなの人盛りがいやになる、かといって、「火事とけんかに花火を除いたら江戸っ子じゃあねえ」というのが通り相場、いい花火見物の場所を数年前から見つけて同じような仲間で集まることにしていたらしいのだ。打ち上げ場から離れているせいか穴場でありながら、櫓の左手に花火が実によく見えるとのことだった。
 橋蔵が茶をすすっている間中、千鶴は昨夜の事件の様子を事細かく話し続けた。死体をもっと間近で正視することは出来そうになかったので、そこらは檜山の言をそのまま伝える。
「おまえさん、自害じゃないと思います。『殺されたの、下手人を見つけて!』と、お咲ちゃんがわたしに懇願しているような気がして仕方がないんだもの。後でゆっくり聞き込みの話を聞かせて下さいね。今日は仕事が入っていますから」
 未練たっぷりに言って、橋蔵を外まで見送った。髪結いの商売繁盛と御用の調べは両立しないものかしらと独りごちた。
 その夜遅く、橋蔵は浮かない顔をして帰ってきた。
「あの調べは、身投げということで一件落着しそうだ」
「そんなにはっきりと見た、と言うんですね? 例の三人」
 汗でべとべとになった袢纏を普段着のものに着替えながら、綺麗に掃除を済ませた居間にどっかと橋蔵は座った。
「飯は帰りがけ檜山様と済ませてきたから。ちっと、喉がかわいたな」
 という声の前に、そんなことだろうと千鶴は冷やしたお酒を用意した盆を手にして横に座ろうとしていた。
「住吉側の小名木川沿いに、船宿が二軒並んでいるだろう。あれの大きい方の店の二階で、三人が一杯やっていたんだ、ってえことだ」と、丁子を一気に飲み干してから、話を続けた。
「その辺りの通りからでは花火は見えないが、二階だから、いい眺めなのだそうだ。海辺大工町の棟梁と、その下の者たちで素性のはっきりとした人物だった。嘘をつくわけがない」
「おまえさんの具合がすっかりいいんなら、詳しく聞きたいんです」
 千鶴は、こういう時には必ず覚書を取り出しさらさらっと書きとめる。頭を整理させるためだが、檜山の真似でもある。
「棟梁が言うには、ここ十数年はこの席を陣取っているらしい。仲間内じゃあ、よく知られている。年によっては家族が揃って十名以上のときもあったそうだ」と、そろりそろりと、橋蔵が語る。
 暮れ六つ(夜の七時半ごろ)ちょうどに花火があがるので、その少し前から皆で軽く飲み始めていた。
 窓は大きく開け放し、談笑しながらも今か今かと待っていたそうだ。その第一発目が打ち上げられた音とともに、全員は窓の外に釘付けになる。すると、そのちょうど右手に例の火の見櫓が見えるんだ。普通ならそんなものには眼がいかない。
 ところが、まさに花火が夜空を真っ赤に染めて漆黒の闇が明るくなった瞬間だったそうだよ。
 娘が袂をひるがえして櫓のてっぺんに立っているのが横向きの姿で、はっきりと見えたっていうことだ。他に人気は無かった。
 少し距離はあるが、三人とも見たことを同じように断言している。
ほとんど同時に全員が『危ねえ!』って叫んだんだが、時遅し。勢い良く闇に吸い込まれるように飛び降りちまったってえことだ。娘以外に人はいなかった。落下した先の草地は船宿の窓からでは見ることはできないらしい。
 それで、あわてて階段を駆け下り、通りを二筋渡り、火除け地もひとっ走りで駆け寄った。が、ときどき打ちあがる花火の光が地に転がった着物を映すような有様だった。一人がもっと近づこうとしたが、二人が大声で制した。もうどう見ても助かりそうにない姿だったということだ。
 なんとも悔しそうに、橋蔵が、そう言った。
「だからこの三人が、生きている娘さんの最後と、仏さんになった姿を最初に見つけた者たちということにもなる」
 橋蔵は千鶴から注がれた冷酒の杯を、また一気に飲み干した。それから、やるせない表情で俯いた。
「花火の灯りが無ければ、見えないぐらいに稀な間ですね。わたしは稀とか偶然なんてものを拠り所とするような物事は信じがたい性分なんですもの」
「あるときにはあるもんなんだよ。お咲ちゃんが着ていたのと同じ白っぽい地に何か朱色の花模様の着物の柄が見えたと言っていたよ。白く浮き上がった横顔が目に焼きついて離れねえと一人が言っていたな。顔が見えるくらい一瞬明るかったそうだ。なんとも切ない話だがなあ」
 橋蔵は杯を時折あげながら、途切れ途切れに話し続ける。千鶴はじっと静かに耳を傾けながらも、やはり奇妙に感じられた。
「ドーンという花火の音が、もしかして……この世との縁切りの合図に聞こえちまったのだろうか。踏ん切りがついたんだろうかな? 逡巡した気配はなく、一気だったそうだよ」
 明らかに、橋蔵は千鶴に同意を求めているのだとわかった。
「あの、あのお咲ちゃんが信じられません。遺書だってありませんでしたでしょう?」
 不満げな表情が露わになっているな、と気付きながらも隠せなかった。
「他人にはわからない、悩みがあったんだろうよ」
 橋蔵は眉間にしわを寄せてグビリと、大きく酒を飲み込んだ。千鶴には楽しそうに笑っていた咲の顔しか思い出せない。現をまだ受け入れられないから現の方を歪めて考えるのだろうか? いや、ハナっから現が歪んでいるのだ。
 そうこう思い巡らしているうちに、咲の無残な最期が脳裏を再び襲った。現と夢をさまよう。
 自分の目で確かめたではないか、咲は自ら飛び降りたのだと言い聞かせようと何度も努力もしてみたが、どうしても駄目だった。何かがひっかかるのだ。
「……それにしても、やはり解せないのです。お芝居のように、できすぎだもの。それに悟ったように、飛び降りるものなんですか? そういう時って」
 千鶴は納得できないものをまだ一人感じながら、自分で記した覚書に何度も目を通すのだ。三人が見たこと、という文字を追いながら、普通自害するときには人目を避けるものではないのだろうか? 真っ黒な櫓から灯りの煌々と灯った船宿の大きな窓が目に入らなかったというのだろうか? と疑問が次々に噴出す。
「この件の詮議は、これで打ち切りだと思うよ。小間物屋にも足を運んだ。おかみさんの憔悴といったらなかった。夫に続いて娘にまで、先立たれたんだから」
「仲のいい、はたから見ても幸せそうな親子でした」

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