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お能はエンターテイメントではない!
先日お能を見てきた。
演目は「松風」あの世阿弥のお父さん、観阿弥の作。
まあ、長いこと長いこと。
いつも以上に眠気におそわれ何度もコックリをしてしまった。
そんな中、これからやっとシテが立ち上がって舞を舞う、というまさに直前、隣に座っていたスタイリッシュな姿のアフリカ系のカップルが席を立って出て行ってしまった。
まあ、それも仕方ないなと思った。
とにかく動きが少なく延々と説明的な謡が歌わ
新しい生き方の提案?〜パーフェクトデイズ
TVの番組で人口減少時代の再開発、という話題をやっていた。
建築物の老朽化や廃れた街の活性化のために日本全国の地方都市で再開発の計画が進んでいるという。
そのほとんどは高層ビルを建てる計画なんだそうだ。
ところが、現実には、今、東京のオフィスビルでさえ空室率がかなり上がっていて、湾岸エリアでは浜松町の13%超えを含め10%を超えるという。
アフターコロナで働き方が変わり広いオフィスの需要が減って
ヌーソロジー「見られる自分」から「見る自分」へ〜人は創造したい生き物
新年に入り、秋の個展に向けて制作に熱が入りかけていたところで、突然前にはまっていた編み物熱が再燃して、1週間近くカーディガンを編んでいた。
自分でもせっかく制作が軌道に乗りかけていたところでなんでこんなことをするんだ?と自問自答しながらも、どうしても仕上げるまでは止まらず。
しかもパーツを継いで形までできてあと一歩、前のボタンをつけるところを編めば仕上がるというところで、デザインが気に入らなく
あなたは私、私はあなた
これまで色々本などを通じてこの世界の仕組みを私なりに勉強してきた。
哲学にしても宗教にしても、学ぶということはただ頭で理解することではなく、その語られていることを自分の身体や感情を通じてその通りだ、と経験したときに初めてそれを理解したことになるのだと思う。
「この世界は自分で創っている」や、「あなたは私、私はあなた」ということなど、はじめのうちはそうなんだろうねえ!と頭ではわかったつもりになって
これからの時代に必要なのは宗教と科学を繋ぐことだ!(2)〜日本人の宗教観
日本人の宗教観
日本人は宗教的ではないと言われることもよくあるけれど、それは明治から後、あるいは戦後の西欧化近代化が進んでからのことだ。
キリスト教などのように一神教ではないけれど、日本人の宗教観はアニミズムと神仏習合が合わさったようなもので、近代化以前はすべてのものに神は宿るという考えをベースに宗教的に生きてきた人がほとんどだったと思う。
その文化的ベースは表面的な西欧化近代化が上書きされ
これからの時代に必要なのは宗教と科学を繋ぐことだ(1)〜ダークマター・ダークエネルギー
少し前に図書館で「死は存在しない〜最先端量子化学が示す新たな仮説」(田坂広志著)という本を借りて読んだ。
直感的に興味は持ったものの、死は存在しない、というタイトルから買うのは迷って、とりあえず図書館で借りてみようと思ったら100人以上の予約が入っていた。
かなりの時間が経ち忘れていた頃にようやく順番が回ってきた。
読んでみたら、死は存在するか、という問題よりも、これまで宗教やスピリチュアルで
自分を赦したら嫌いな人が消えていった
私はこの10年あまり、自分を変えようと思ってきたけれど、その中でも特に自分を赦すというのは大きなテーマだった。
そうした中少し前に、自分の全てを肯定してみる100日というのを自分で設定してみたこともある。これもずいぶんと効果があったみたいで、自分で自分が嫌だなと思うことを受け入れて赦す習慣が強化された気がしている。
そしてそのことで自分が変わった、と思える「証拠」を見つけたのだ。
私の若い頃か
自己肯定感が上がれば幸福度が上がる
この前のWBC決勝戦前の大谷の言葉!
「僕から一個だけ。憧れるのをやめましょう。ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日超えるために、トップになるために来たので。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考え
発達障害から非定型発達へ、そして生命と調和して生きるということについて
発達障害の話をここまでの3編で発達障害という言葉で括られる社会に適応しにくい人たちを「障害」とするのは大量生産大量消費時代の必要から来ている、という論点から語ってきた。
私は資本主義や大量生産の全てを否定しているわけではない。もちろん自分もその恩恵を大いにこうむっている限り安易に批判などできないと思う。
百均には散々お世話になっているので。
100年前に比べたら日常生活が送ることができる社会では
発達障害は人類を救う
だいぶ大袈裟なタイトルにした。
発達障害という言葉について二つの記事を書いてきた。
この記事もその続き。
人類を救うかどうかは本当はわからないけれど、そのくらいの気概があってもいいかなと書いてみた。
今環境の破壊による地球の危機が叫ばれているけれど、危機なのは地球というよりは人類の存亡の危機なのだと思う。
人類が滅びればこの地球はあっという間にその時なりの自然を回復して何事もなかったように存
発達障害という言葉は誰のためのものか?
前回の記事で発達障害という言葉は大量生産大量消費の文化の中で生まれたものじゃないか?ということを書いた。
これをもう少し掘り下げてみたいと思う。
このことをもう少し直接的に表現するならば、発達障害というラベルを人に貼る必要があるのは誰か?ということだ。
規格外の野菜を排除するのはそれが高く売れないから。
人間の場合も規格外の人は使いにくい。
大量生産大量消費時代には均質な「商品」が求められる。