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発達障害から非定型発達へ、そして生命と調和して生きるということについて

発達障害の話をここまでの3編で発達障害という言葉で括られる社会に適応しにくい人たちを「障害」とするのは大量生産大量消費時代の必要から来ている、という論点から語ってきた。

私は資本主義や大量生産の全てを否定しているわけではない。もちろん自分もその恩恵を大いにこうむっている限り安易に批判などできないと思う。
百均には散々お世話になっているので。
100年前に比べたら日常生活が送ることができる社会では餓死する人もほとんどいないし、着るものも生活雑貨も大方の人が不自由しなくなっている。
それは確かに大量生産のおかげでもある。

発達障害という言葉についても、それまで自分はなんで人のできることができないのか?と悩んできた人が、その言葉によって、自分は人とそもそも気質が違うのだ、と知ることで楽になった、という話もよく聞く。

何事も悪い側面だけということはないものだと思う。

ただ、やっぱり私は「障害」という言葉がどうしても気になる。
障害というと機械の故障と同じに自分も人も捉えてしまうことになるのではないかと思う。

何かもっとよい表現がないものか、と思っていたら、「非定型発達」という言葉があるそうだ。
こちらの方が障害という言葉がなくて良いと私は思った。


私たちの社会もどんどん変化をしている。今までお気に入りだった服が突然似合わなくなることがある。

大きな世界大戦を二回もして、飢えや物資不足に悩んだ時代を経て、大量生産は確かに人々に恩恵をもたらしたけれど、今ではその弊害の方が目立ち始めている。
それがはっきり形になったのが最近の大災害や今回のパンデミックだろう。

弊害が出てくればその道は行き止まりになる。皆で同じものを持ち同じ価値観を共有する時代は終わっていくのだと思う。

そんな中で非定型発達の人々の役割はどんどんこれから大きくなっていくと思う。

物の流通も情報の伝達も大きく様変わりした。

インターネットの発達によって、これまでは時間や空間に縛られていたものが世界規模で解放されることになってきた。こうやって私が書いている文章も空間を超え時間を超え、誰かに届いていく。こんなことはパソコンやスマホが普及する以前にはなかったことだ。


古い価値観にとらわれることから抜け出すことが今を最大に生きていくために必須なことだと私は思う。

この前テレビのドキュメント番組で「目の見えない人の見ている世界」というのをやっていた。
視覚障害者は何を見ているのか?という話は古い時代には取り上げられることもなかったと思う。


人間の障害は機械の故障とは違う。


機械が故障をすれば直すか壊れたままにするか以外になく、壊れてしまえばその機械の役割は果たせなくなる。


でも人間はそんなふうにできていない。機械ではないのだ。


2歳の時から視力を失った、という人は音の反射で物の情報を捉えることができるという。その人は目が見えない分を他の機能を発達することで補い、自分の生きる世界を作り上げていた。
今もし目が見えるように治せると言われても、治した方がいいのか悩むだろう、とその人は言っていた。

当たり前のことだけど人間は人間が作っているのではなくて、この広大な宇宙の中で育まれている生命によって作られている。
近代現代の科学の急速な発展によって、なんだか人間はなんでも作れるような錯覚に陥っているかもしれないけれど、それはどこまで行ってもお釈迦様の手のひらでの奮闘以上のものではないということは忘れてはならないと思う。

そしてその生命を司る世界ではその人間の奮闘以上のことをしてくれる。
ちゃんと失ったものや足りないものを補うものを与えてくれる。

私にも一つの経験がある。
私は去年検査で心臓の冠動脈がほとんど詰まる寸前だったことがわかった。でも先生が驚くほど心臓は健康な状態だったそうだ。おそらくは細かい血管が脇から出て補っていたのだろうとのことだった。

繰り返し言いたい。人間は機械ではない。モノでもない。

生命という人間が全てを知ることができないものをベースに生きている。

どこまでも生命が先で人間が後だ。
その逆は絶対に起こらない。

そもそも前にも書いたように人間が自分たちの生きていける環境を破壊してしまえば自動的に人間も消滅する。それほどにはかない存在でしかないと思う。

でもそれは悲観的になることでは決してなくて、むしろ人間が謙虚に生命と調和して生きる必要を自然の側から要求されているだけのことだと思う。

生命と調和をする、ということは、言い換えればありのままを受け入れる、ということに他ならないと思う。

定型発達であれ非定型発達であれ、結局のところありのままを受け入れられる人がこれからの時代を幸せに生き易くなるのじゃないかと私は信じている。

自分を社会の作った型に当てはめようと思えば誰だってありのままでいられるわけがなく、苦しくなるに決まっている。

ありのままでいることは確かに口で言うほど簡単じゃないと思う。それこそお釈迦様はありとあらゆる激しい修行の果てに、全てを放棄して諦めた時初めて悟りを開き、世界のありのままの姿を見ることができるようになったという。

私たち凡人はそんな激しい修行などできるわけもないのだから、生臭く生きながら、でもその生臭さの中で日々小さなありのままを積み重ねていくことで、日々小さな幸せも積み重ねていけるのかな、と思ったりしている。

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