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発達障害は人類を救う

だいぶ大袈裟なタイトルにした。
発達障害という言葉について二つの記事を書いてきた。

この記事もその続き。

人類を救うかどうかは本当はわからないけれど、そのくらいの気概があってもいいかなと書いてみた。

今環境の破壊による地球の危機が叫ばれているけれど、危機なのは地球というよりは人類の存亡の危機なのだと思う。
人類が滅びればこの地球はあっという間にその時なりの自然を回復して何事もなかったように存在していくだろう。

人類は長い時間をかけて他の動物とは一線を画する社会を築いてきた。そしてこの100年くらいでは加速度的な技術革新を遂げて生活が一変してしまった。
特に資本主義的な利益追求のために一番有効なことが新たな欲望を作り出すことだ!と気がついてからは、それまで必要じゃなかったものを必要なものとして、どんどん物が作られて、また新たな必要を作り出すために捨てられていった。

その結果はご覧の通り、人類は自分の首を絞め始めていることに初めて気がつく。

近年毎年のように起こる大規模な洪水など自然災害も無関係ではないだろう。
でもこんなことはほんの序章の序章に過ぎないのだと思う。多分、本番はこれからだ。
人類が本気で今の生き方を改めない限りは!

ってなんだか宗教の教祖でもいいそうなフレーズを言ってしまった。

でも、これは事実だからしょうがない。

必要のないもののためにお金を必要として、そのお金を生み出すために頭を捻って人に必要のないものを必要と思わせようとする。
これ、純真な子供が聞いたら、なんで?なんで?なんで?って聞きたくなるだろう。

なんで必要もない物が欲しいの?

それはね、自分がそれを持っていると人より優れているように見えるから、人から認められているように感じるから。重要な人に見えるから。

小さい子供だって、次の子が生まれると自分の方を振り向かせたくていたずらをしたり、無駄に駄々をこねたり、いらないことをする。

基本それと同じこと。

有名なデール・カーネギーの「人を動かす」という成功哲学の本ではこのことをキーポイントにしている。人は誰でも自分を重要な人間と思って欲しいものだ、と。
まさに承認欲求を満たしてくれる相手を喜んで受け入れるのが人間、というわけだ。

20世紀にはこれが当然のことのように語られてきた。

承認欲求そのものは生存本能の一部であって、全てをなくすことは不可能だと思う。ただ、すべてのものはスペクトラムで、その程度が問題だ。

デール・カーネギーがものを売るコツを伝授した通り、人に承認されることで自分に価値がある、と思わせる、逆から言えば人から承認されなければ自分に価値がないと思わせる、ことがこの資本主義社会の戦略の一つだということがわかる。

その程度は不要なものを必要と思わせようという戦略と同じことの裏表かもしれない。その話はまた別のところでしようと思う。

欲望も最低はないと生きていけないように、承認欲求もある程度あるのは自然なことだろう。
でも余分な承認欲求は余分な欲望と同じように本来は不要なものだ。
なぜ承認欲求を際限なく求めてしまうか?
それも欲望と似ている。
どこまでも求め続ける、ということは満足感がないから。
欲望も満たされている、と実感できれば際限なく求め続けることはなくなる。
承認欲求も、自分で自分が十分重要な人間なんだ、と認識できていれば、外側にそれを認めさせようとする必要がなくなる。

必要以上の欲望と承認欲求の罠から逃れるポイントは、ありのままの自分がこれで十分価値があることを実感的に認められることじゃないかと思う。

さて、タイトルの発達障害は人類を救う話に戻そう。

発達障害と括られる人は本人の側からいうと、集団の中での自分の在り方とか周囲の人との関係やコミュニケーションの取り方に困難を感じることが多い、とされる。
周辺の人間からすると、関係が取り持ちにくい、グループの秩序を乱す、などと感じるかもしれない。

そのことから問題が生じやすいには違いない。

が、これまでの二編に書いてきた通り、現代のIT社会になってから世界は一変した。少なくとも、生きている場所は絶対的ではなくなったし、集団に帰属しなければ生きていけない、という状況からやり方次第では自由になれる可能性が出てきた。

集団に馴染まなくても生きていけるなら、積極的にそちらを選べばいいじゃないか、と思う。
自分の性質を逆手に取るのだ。集団から出られたら出ればいいし、出られない場合も自分はそもそも集団に馴染めない人間なんだ、という前提で生きる努力をすればいい。

資本主義社会は言ってみれば大衆に集団催眠をかけているようなところがある。
それを持っていないと社会から脱落する、そういう生き方をしなければ人から認められない、と。
不要な欲望と不要な承認欲求まみれにすることが資本主義的生存戦略になる。

発達障害の人だってもちろん不要な欲望と不要な承認欲求の催眠にかからないわけではないだろう。日々マスメディアが垂れ流す情報は万人に注ぐのだから。

ただ、せっかく集団に馴染めない、という性質を持っているのだからそれをこれからの世界に積極的に活用していこう、というのが私の提案だ。

どんな種類の「発達障害」だとしても、そこがもし共通項であるなら、それこそが「発達障害」の人の大きな価値になる。

歴史の中で偉大な業績を人類に残した人の多くが今で言うところの発達障害的特徴を持っているのは決して偶然ではないだろう。
集団のコードを読み取れない、と言うことはそのコードに巻き込まれにくい、ということも示している。

今、人類を破滅に追いやっていることが明らかになりつつあるのに、慣性の法則で自分では止められなくなっているのが今の資本主義社会の現状だろう。

そこからドロップアウトをしやすいのが「発達障害」的人々じゃないか?

スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(ちゃんと言いたいところだけど彼女ももう20歳ですね)はまさに発達障害的特徴を持った人だ。
その彼女が環境問題を世界に対して大きな声を上げたことも象徴的な出来事ではないかと私は思う。

私たち発達障害、と呼ばれる人たちで、この人類の新しい道を開いていけるんじゃないか?私は真剣にそう思うのである。


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