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発達障害という言葉は大量生産大量消費時代の遺物!?

私はそもそも発達障害という言葉に対してどうしても違和感を感じてしまう。
この言葉を検索すると厚生労働省のホームページが冒頭に出てくる。

>発達障害には、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症(ADHD)、学習症(学習>障害)、チック症、吃音などが含まれます。


生まれつきの特性で上のような種類があるということだけど、それぞれがかなり違う特徴を持っているし、なんでこれを一括りにして発達障害と呼ぶのか?
発達障害、という言葉自体が、その人が人間として不完全ででもあるかのようなイメージを起こさせないだろうか?

過去天才と呼ばれた人々は皆この発達障害のような人が多かったことは有名な話で、そういう本も何冊も出ていると思う。私も過去に自閉症スペクトラムとアートの関係を書いた本を読んだこともあった。
「天才と発達障害」という本も出ているようだ。
その本の説明に上がっていたのはモーツアルト、アインシュタイン、ヴィトゲンシュタイン、南方熊楠、芥川龍之介。

当時の西洋のものを凌ぐような望遠鏡を作った国友一貫斎、一年動き続ける万年時計を作った田中久重、精密な日本地図を作った伊能忠敬、江戸時代にもたくさんの天才がこの日本にもいて、彼らも間違いなく今でいうならこの発達障害に入るんじゃないかと思う。主に自閉症スペクトラムだと思うけれど。
でも彼らは発達障害などというラベルは貼られていないはず。比較的余裕のある家に生まれたことから自分のやりたいことをやれた結果、偉業を成し遂げることもできたのかもしれないが。

いつから発達障害という言葉が生まれたのか?と調べると、1963年にアメリカで生まれ1970年に日本に入ってきた、という言葉が出てきた。
特異な行動をする子供には生まれつきの脳の機能に特徴がある、ということを突き止めたことから来たようだけれど、この発達障害というカテゴリーが作られたのが大量生産大量消費の黄金時代だったことも関係しているのではないかとも思える。

均質なものを生産してみんなでそれを消費する。それがみんなの幸せにつながると信じようとしていた時代、とも言える。誰が信じて誰が信じていなかったかはわからないけれど、日本では貧しい日本を抜けて、豊かな日本、世界に誇る経済大国日本へと邁進していた時代。

規格外のものは売れない、そういう時代。

有機物である野菜さえも規格が揃った見かけの良いものだけが商品となっていった。

そういうことが人間の心にも影響を及ぼさないわけがない。

発達障害、というラベルをつけられて規格外扱いをされることで、どれだけ苦しんだ人がいるだろう?

実際集団行動をする上で人に合わせられない人はそのグループ行動を乱すもとになるのは確かだ。
そして集団主義的な基礎は江戸時代から、あるいはもっと昔から、村社会のあり方として深く日本に根付いたものかもしれない。

それが、大量生産大量消費の資本主義社会のあり方と結びついたとき、発達障害、という言葉で括られ、どうしたらそれを治せるのか?という方向で扱われるようになったのじゃないか、と思う。

私自身も自閉症スペクトラムの特徴を十分持っている。ただし、私の場合高校生の終わりから自分の好きな美術の世界に飛び込んで、アーティストとして生きてきたために、社会との軋轢を感じることが最低限で済んできたところがある。
でも発達障害、という言葉を聞くと、私もその一人だなとやっぱり思う。

発達障害って直さなければいけないものなのだろうか?

確かに人間は社会的動物でもある。

でも一方で、他の動物とは全く違う発展を遂げてきた。
火を使い、道具を使い、長い距離を移動して世界中に社会と文明を作っていった。

そもそも初めて火を使った人、アフリカから出て長い距離を移動して行った人、海を渡った人、今の私たちには想像もできない勇気ではないかと思う。

そんな勇気を持った人が空気を読んで、”適度な社会生活”を送れる人だったとは到底思えない。

古代や石器時代やさらにもっと前とかとなると遠すぎて想像もつかないかもしれないが、今でも人間の社会を観察するのに猿の行動を観察したりもするのと同じように、変わらない部分も大きいのじゃないかと思う。

いつでも、新しい創造をする人は今で言うところの発達障害的な脳の持ち主だったんじゃないかと思う。

発達障害の人全てが天才なわけではない。本人にしても家族にしても「人並みのことができない」と悩む人も多いだろう。
でも、そういう人もやはり大事な人間社会の一員で大切な社会の要素なのじゃないかと私は思う。今盛んに言われている多様性を作り出す大事な個性として。

社会に適応する工夫をすることで本人が生き易くなることは必要なことだと思う。周りの社会や集団と軋轢が起こるなら、そこはなんとかしたほうがいい。変えられるところは自分を変える、自分を変えなくてもその集団から離れるなど、軋轢をなくす方法は色々あると思う。

とにかく発達障害、という言葉はやっぱり乱暴すぎるし、今の時代に合わなくなっていることだけは確かじゃないかということ。

ただそう易々とは物事変わらないかもしれないので、ぜひ、そういうラベルを貼られた人は、その言葉に負けないで欲しいと思う。

すべての人は等しく生きる価値があるのは絶対的な真理だと私は信じている。
生まれつき誰かが価値があって誰かが価値がないなんてことはあり得ない。
ただ自分で自分の価値を落としてしまう人はこの世に溢れている。
結局自尊心の問題ということにもなっていくのだろうけれど、その自尊心を低くしないためにも、発達障害というラベルを貼られたことがある人はぜひともそれは資本主義社会の大量生産大量消費時代の遺物だと捨てて欲しいと私は思うのです。


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