見出し画像

お能はエンターテイメントではない!

先日お能を見てきた。
演目は「松風」あの世阿弥のお父さん、観阿弥の作。

まあ、長いこと長いこと。

いつも以上に眠気におそわれ何度もコックリをしてしまった。

そんな中、これからやっとシテが立ち上がって舞を舞う、というまさに直前、隣に座っていたスタイリッシュな姿のアフリカ系のカップルが席を立って出て行ってしまった。

まあ、それも仕方ないなと思った。

とにかく動きが少なく延々と説明的な謡が歌われる。
座席の前に字幕のパネルがあって英語でも内容はわかるのだけれど。

去年から何回か観ていた私も流石に今回のは少し長く感じていた。

お能はもちろん舞台芸術だけれど、歌舞伎やオペラ、現代劇などと同じようにエンターテイメントを期待してみたならこれほど退屈な芸能はないだろう。

だからこそ、エンターテイメント的なところを分離してお能の前に狂言が演じられるようになっているのだと思う。
実際、狂言は現代人の私たちも普通に笑える楽しい演目になっている。



私は去年から国立能楽堂の会員になって2ヶ月に一度くらいのペースでお能を見るようになった。

何故お能が気に入ったかというと、お能は半分眠っているような状態で見るものなんだということがわかって、そうなるとなんともいえない癒される感覚があることに気がついたからだ。

昔見たときには眠気と戦うのが必死で、こんなに眠くなるものは大変だと思った記憶がある。
途中で帰ってしまった外国人と同じ感覚だったのだろう。

それが眠くて正解なのだ、ということに気がついてからはとても楽しめるようになったのだ。

幽玄の世界、とよく言われるけれど、まさにそれなのだ。

現世に対して、メタ現世。

この世が4次元の世界なら5次元の空間を作り出しているのだ。

つまり5次元浴をするのがお能の醍醐味なのだ。

私たちは日頃の雑事に紛れて、この世が四次元しかないものと思って過ごしてしまうけれど、夜眠りにつけば、違う次元に遊んでいる。

夢とは何か?はいまだに正確にはわかっていないそうだ。

その夢と同じとは言わないまでも、本質的にとても近いところに人をいざなうのがお能なのだ。

むしろ夢は脈絡がなくコントロールされない世界だけれど、お能はそこに特定の場面を設け、霊やら精やら鬼やらを出現させて見せてくれるのだ。
それは演じるのではなくそのものを出現させているとも言える。能を演じるということについてはよく知らないけれど、きっと、そこには代々引き継がれた奥義があるのだろう。

そのためにお能はどんどん遅くなって今のように超スローモーションの演技になったのではないかとも思う。
(お能は世阿弥の頃は開演、終演時間と演目数の記録から、今の2、3倍の速さで演じられていたと思われている。)

ある程度眠くなるというのはお能を観る者の必然なのである。

むしろ完全に冷めた状態で見たら、これほどつまらないものはないに違いない。

お隣の外国人は寝ないかな?と時々様子を伺っていたけれど、どうも全然寝ていなかったようで、逆に途中から指を動かしていた。もしかしたらイライラしていたかもしれない。

一方、私の前に座っていた日本人の男性は、始まった途端首を垂れて寝ていた。

お能はエンターテイメントではない、というキーワードで検索したところ、能楽師の人の話がヒットした。

「お能はチル、エンタメより美術館に近い」シテ方宝生流20代宗家の宝生和英さんに聞く

この方の説ではチル、つまり心を沈めるものだ、ということで語っていらっしゃる。
そういう面も大きいに違いない。

美術館に近い、というのも大いにうなづける。近いというよりアートと同じ役目なのだ、と私はアーティストとして思う。

これほど直接的に現世的な時空から人間を引き離してくれる芸能はなかなかないのではないかと思うのだ。

お能は室町時代に隆盛してその後時の権力者に保護され伝わってきた。

何故権力者がお能を愛したかというと、それがメタ現世的だからだと思う。
それらの支配者はこの人間世界を支配するためにはその上の次元が必要だと感覚的に理解していたのではないかと思う。

そういう高い次元を創出する装置がお能という芸能だったのではないだろうか?

また、室町時代にしろその後の戦国時代にしろ、権力者といえども、常に死と隣り合わせの大変緊張感の高いところで生きなければいけなかった。
そういう現世的緊張感の中で、この世を超越した世界に遊ぶことがとても貴重な時間だった、ということも想像できる。

そういう、現世から一歩抜け出す時間を創出してくれるお能という素晴らしい芸能を保持して発展させてきたことは改めてすごいことだと思うし、こうして今でもお能の席が満席になることもある意味必然なのだと思う。

ただの教養とか伝統芸能とかとして観ていてはあまり面白いものではないだろう。自分の魂丸ごとその世界に入り込んだ時、初めてお能の魅力が見る者に向かって花開いていくのだと思う。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?