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あなたは私、私はあなた

これまで色々本などを通じてこの世界の仕組みを私なりに勉強してきた。
哲学にしても宗教にしても、学ぶということはただ頭で理解することではなく、その語られていることを自分の身体や感情を通じてその通りだ、と経験したときに初めてそれを理解したことになるのだと思う。

「この世界は自分で創っている」や、「あなたは私、私はあなた」ということなど、はじめのうちはそうなんだろうねえ!と頭ではわかったつもりになっていても、実際に事故に遭ったりすれば、なんでこんなときにこんな目にあっちゃうの?と思ったり、人との関係でひどいことがあればその人に向かって怒りがわいたり、もしていた。

それでも最近はだいぶ自分で世界を創っている、という感覚は身につきつつあって、この前転んでおでこを強く打ったときには、ああ、こういうことを私は経験したかったのね?これは必ず私にとって必要なことなんだと自然に思えるところまでにはきている。その後顔がお岩さんを超えてゾンビみたいになって少し落ち込んだけど、それでもこれはきっと古い自分が死んで新しい自分が生まれる兆候だ!と本気で思えたから、少し前に進んだ気はしている。

「あなたは私、私はあなた」についても、嫌なことにあっても、「あなたは私、私はあなた」だな、とこの人は自分の一部なんだととっさに思うようになったから、だいぶ身体化できている気はするのだけど、そう思った瞬間なんだかそれまで面白がっていたゲームが突然色あせるような、生きているのがつまらなくなるような感覚にもなってしまった。

人がこの世になんのためにやってくるのかといえば、基本楽しむためなんだ、というけれど、こういう人とのトラブルさえも本当のところは楽しんでいたのかもしれない、と思えてくる。

「こんな悲惨な目に遭っているのにこれを楽しんでるなんてとても思えない!」という人も多いと思う。

実際に今のウクライナやパレスチナの人たちにそんなことはとても言えたものではない。
だから、人に対しては言う気はない。

まずは現時点の自分がどう思いどう生きるか、なんだと思う。
この世界は自分で創っているというなら、この世界は自分を中心に成り立っている、ということになる。

ずっと前にたまたま誰かがSNSで紹介していた動画を見たことがある。
それは、Miyoko Shida Rigoloという日本の女性舞踏家が、一枚の白い鳥の羽を一本の棒に乗せるところから始まる。その後、その棒の上にまた棒をバランスをとって乗せる。手だけではなく足も頭も使って、たくさんの曲がった木の棒のバランスをとって大きなモビールのような状態になったときに一本の木にその全てを預けて体を離す。

よかったら見てください。
MIyoko Shida Rigolo

このパフォーマンスの美しいところは最後に最初に乗せた羽を取るとバラバラバラと、それまでバランスをとっていた木が崩れ落ちるところ。

これを見たとき、この世界もこんな風に絶妙なバランスで成り立っていて、自分もその一部なんだな、と思ったものだった。

ただ、その時は漠然と自分はバランスの中の一部だ、と思っただけだったけれど、今ははっきりと自分がその一枚の白い羽と同じなんだと思える。

世界の中で私たち一人一人は本当に羽一枚ほどの重みもない存在として存在しているけれど、それでも世界はこの羽のようにどんなに軽くとも全体に一瞬で影響を及ぼす可能性を持って存在している。
これは自然界の法則なのだと思う。

私たち一人一人はそれほどに大きな意味を持って存在していることを忘れてはいけないのだな、と、新しい年を迎えて改めて思うのだ。


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