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【前編(1/2):無料版】全ての光たちの「接触」による、陰的刺激の発生と悪意の醸成、現象界仕様での陰陽と光の研磨

🔴< はじめに >🔴


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「今回の内容について:「いじめ」をしたということ」


私は「いじめ」(的なこと)をした。主犯格で。これを明示しておく。私が示す様々な見解を、受け手それぞれにフィットする程度で判断や参照等する際の参考となることを意図して、今回の内容を示す。

今回の主な内容を以下に示す。

・子供の頃に主犯格でいじめを行ったということ

・ネガティブな動機やネガティブなエネルギーでの行動やアプローチでも、自己の発揮や表現と紐づくことで「快」が生じるということ:またこれは、個人レベルだけでなく、人類レベルでの諸現象や全体の水準にも影響していると考えられるということ

・私はネガティブ、ポジティブ、バランスのどれにも属さないということ:あらゆる点で大衆に媚びないというスタンスであるということ

・私はネガティブ体験をしている人々へ、寄り添えきれないということ:また、様々な尺度や感性でのネガティブが付着しているからこそ、誰かを救えたり回復させたりといったアプローチ(寄り添い)ができ得る場合もあるということ

・私が精神な領域にとどまらず物理領域をやろうとする理由について:人類や全体における精神的な領域、特殊能力的な領域の水準向上において不可欠と感じられるためということ:また、認めた人々や人類性質へのリスペクト故に、私がやろうとしていることには、無理に気付かれなくとも良いということ

など。


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「いじめをしたことを明示する意図」


私の見解等は、ネガティブと体感されるものやことを体験している人が居たならば、そうした人々にとって、プラスになる可能性があるものを示していることが多々ある。人によっては、見解等の発信者がどういった人なのかによって、その見解の参照度合いが変わる人もいると思う。また見解等の参照度合いとは関係なく、発信者のことを知ることによる気持ちの面、感情の面でのポジティブやネガティブといった様々なゆらぎが生じることもあると思う。そうした面を考慮した際、私の観点から伝えておいた方が良いと思ったので伝えている。


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「過去の事象に対する罪悪感等の発生しない受け止め状態」


またいじめをしたことに対して、反省しているとか、後悔しているとか、改心したとか、罪悪感を持っているとかは、今は無い。自分の中でフィットする認識や感覚によって受け止めると、この体験に対して罪悪感等とは異なる感覚が発生がしやすくなる。仮に生じたとしても、より望ましい状態としては、罪悪感等をクリアしたり、昇華して受け止められている方向性が今の私にはフィットするため、イメージングなど、様々な手法を用いて、対応している。それらの影響によってと思うが、そもそも罪悪感等の発生の程度や質が異なる状態になってもいる。

後悔しているとか、罪悪感を持っているとか言った方が現状の大衆においては「ウケ」が良いかもしれないが、私は「ウケ」を狙っている訳ではないのでしない。

センシティブは反応を生じさせやすい話題のため、この時点で違和感を感じたら、見ない方が望ましいと思う。それを伝えておく。 


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「文章等を公表する際の、その時点での私の状態や意識、見解等との乖離傾向について」


私の見解および状態や意識は、この文章を創っている最中にも変化している。私にとって、その時点で望ましいと感じられる方向性に段階的に変化している。

そのため、こうしたコンテンツを出した時、既に私の状態や意識は変質している。その公表時点での私の状態や意識、エネルギー、見解等は、公表したコンテンツの内容のものとは、少し異なっているかもしれない。常にタイムラグが生じやすい。

しかし、公表することで、自らの変化を促進できるため、出す。また公表する時点の私の状態や見解等にとっては、公表する内容が過去のものやトピック、エネルギーだとしても、全体にとってはプラスになると思うため、出す。私は性質上、どんどんと変化していってしまうため、最新の状態で形にすることは、困難さがある。今はそこに「暫定的に」目を瞑る形で出していく。

それを示しておく。


🔴< 見解等を提供や共有する際の取り組み意識意図 >🔴


また顕在的、潜在的にそれぞれの方向性や観点から何かしらプラスになる人、かつ内容に関してショックや動揺が生じない、またはご自身で影響をカットや対応できる人にのみ、届くように意図する。

内容の提供や共有に関するその他の取り組み意識については、この記事の終わりで示す参考記事等の内容に基づく形とする。


🔴< 注:記事の有料版と無料版、記事の書籍化について >🔴


今回の記事は、有料版と無料版を用意している。有料版と無料版とでは相違箇所がある。また書籍化もしている。書籍では有料版と無料版とに記載されていない、1万6000文字分の追加部分がプラスされている。

✅※参考コンテンツ:

💠書籍版


なお、有料版と書籍版は同一価格で提供させてもらっている。有料記事版と書籍版は同一価格だが、書籍版の方がメリットが大きい。そのため、💠🔴💠「有料記事版か書籍版の購入を検討される場合は、基本的には有料記事版ではなく、書籍版を奨励」💠🔴💠している。

有料版と無料版、書籍化等についての詳しい内容については、この記事の終わり辺りの< 無料版(有料版)の記事、書籍について:詳細 >の項を参照してもらえたらと思う。目次から確認が可能だ。また、記事の動画化や音声化を後日予定していることなどについても示している。

✅<注:終了>✅


🔴< 関連記事等の情報について >🔴


関連記事やSNS等については、記事の終わりに示す。





🔻【①】🔻
幼い頃の性質とその変化


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①-1
< 子供の頃について >


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いじめ的なことをしたのは小学生~中学生くらいの時だ。私は小さい頃は基本一人で自由気ままにしているタイプだった。高圧的な相手や本当に悪意のある相手、かつ年上や身体が大きいなど私から見て自分と同等以上の相手に対しては、怒りが自然と爆発して圧倒していた。または、抗ったりしていた。ただ、自分で言うのもあれだが基本は穏やかで、自分から相手をどうこうすることはなかった。正直、人に対してあまり興味もなかった。昆虫や動植物を観察したり捕まえたり、図鑑を読んだりするのが好きな子だった。一人行動していると、寄ってくる子たちがいて、そこで交流したりはあった。


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①-2
< 勝負好きな面について >


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また、戦いが好きな面があった。超有名どころになるが、ドラゴンボールが好きだった。小学校に入ると、相手と組み合って、手や身体が地面に付くと負け、といった柔道のような相撲のような遊びがあった。それを私はクラスの一人一人に「ちょっと良いか」と声をかけて、遊びという名の勝負に誘い、各個撃破するということをやっていた。というか、私だけ本気で、相手の子は、「遊び」としてやってくれていた。当時の私の身体つきは縦も横も中くらいだったが、基本どの子も良い子だったのと、私だけガチでやり、かつしつこかったので、そりゃあ勝って当然だった。遊びという名の勝負の最中も、また終わってからも、「遊び」としての感じを多くの子たちは崩さず、終始明るく爽やかな雰囲気で行われていた。私は内心で、付き合ってくれた子たちが、「遊び」としてやってくれていることを重々承知していたが、「勝ちは勝ちだからな」という形で受け止めていた。どうだ面倒臭いだろう。遊びでも本当にこうしたことが苦手だったり、好まなそうな子で、言い方が悪いが、やらずとも勝敗が見えているような子たちは除き、打ち負かしていった。一方的な自己認識として。

自分よりも背丈も身体付きも大きな子に対しても、1回で勝負が付かずとも、何度も何度も挑戦をお願いしたりしていた。その子は身体は大きいがとても優しい子でもあったので、終いには意識的か無意識的なのか、私に気付かれないように、手を抜いてくれた。それは「面倒だから」といった感覚の比重よりも、「優しさ」から、手を抜いてくれて、私が勝つようにしてくれていた。当時は、常に意識しているわけではなかったが、他者のそうした面もキャッチするタイプだった。またこの子のように、「自分の中」で精神面であれ、能力面であれ、「スゲーッ!」と思う子に対しては、認めるタイプだった。そうした側面があった。


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①-3
<人への興味関心について>


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小学校の3年生辺りになると、興味関心の対象が昆虫や動植物から人間に向くようになっていった。特に元気無さそうにしている子、一人でいる子のところに行って、何気なく一緒に居たり、冗談を言ったりして笑わせて、相手が元気になっていくのが好きだった。元気になったのを見届けたら、また別の子のところに行って同じようなことをする、ということにハマっていた。


🔻【②】🔻
悪意にさらされての転身


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②-1
<当時の私の状況>


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人に対して多少興味関心が出て以降、私の周りには、クラスの中の基本的には穏やかな性質の子たちが集まっていた。
私は基本的には一人行動が好きだったが、意図的に人の悪口を言ったり、いじったりすることは無かったためか、私が何かするわけでもないが、穏やかな子たちが集まって来ていた。基本的には積極的に人と話すタイプではなかったが、いたらいたで話さないのも何だかなと思い、冗談を言ったり、話を振ったりしていた。そうした状況だったので、ある種グループ化していた。やんちゃ気味な子自体がクラスや私の学年には、基本的にあまり多く居なかったため、クラスの男子の多くが私のグループ寄りみたいな感じとなっていた。

そうした状況で冗談を言ったりしていた。私自身も冗談や変わったことが好きだし、周囲も楽しんでくれることが嬉しかった。だから、ある意味ピエロ的な形で関わっていた。


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②-2
<子供たちの野蛮さ、悪意の無さに対する認識と身体(心)との乖離、板挟み>


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そうした他の子達との関わり方において、私の中で、常にチクチクしているものがあった。言い方が悪いが、同級生たち、子供たちの「野蛮さ」だ。悪意なく、「死ね」等といった言葉を平気で使う。

後はいじり。これも満面の笑みで明るく悪意なく、他者の本当に嫌がっている範囲を超えてやる。皆が皆ではないが、全体の個性のグラデーション故と思う。ただ、全体で見たらそこまででは無いとされるかもしれないが、他者の本当に嫌がる範囲を超えていじったり、尊厳を損なうような言葉や行動をすることが、悪意なく横行している環境が、体感的なレベルではあった。こうした環境っていうのは、まだ人間として生まれて間もない段階なのに、中々にハードだよなと思う。これは私に限らず全ての子供たちに対してだ。

🔶
私個人は、冗談を言ったり、ふざけたことをする、好むタイプでもあったが、私から見て相手が本当に嫌がるラインを超えて行うこと、相手の尊厳を損なうことは好まなかった。自分自身にとって「快」では無いのでしなかっただけで、個性の程度が違えば、また話は違っていただろう。

誰かが傷ついたり、誰かの尊厳が損なわれるようなことは、自分自身にとって「不快で嫌」だから、そうしていた。自分がピエロになることで笑いをとったり、周囲の空気感を察知して、そこから敢えて外れたことをするのが好きだった。ピエロになると言っても、自己犠牲的なことを好んでいる訳ではないので、尊厳を損なうような反応をされることは好まなかったし、自分の中で自分の心身を傷つけるようなやりすぎなことはやらないスタンスだった。

🔶
基本は、私の尊厳を損なうような対応や反応をされることもないのだが、中には悪意なく「死ね」等といった刺激の強い言葉を使う子もいる。そうした言葉を投げかけられた際には、結構なショックがあるが、悪意が無いことはすぐに分かる。相手の子にとっては、大した意味の無い言葉であることも分かる。私自身は悪意や高圧的な態度等には反応し、怒りを爆発させて対応しようとする。それで相手を圧倒するし、または抗う。当時は特に強くそうした傾向があった。しかし、悪意等が無い相手には、そうしたことができなかった。またこれは良いか悪いかは置いておくが、当時の感覚として、自分よりも年上であったり、身体が大きいなど、同等以上の存在として感じられる相手で無いと、怒りを爆発させて迫ったり、対応するということもできなかった。そういう呪いでも掛かっているのか、と言うぐらいできなかった。

刺激的な言葉を掛けられたりしても、悪意が無いことが分かれば、基本は相手に対してどうこう思うことは無い。こういう個性の子なんだなと、相手の子を下げることもなくニュートラルな感覚で受け止められる自分がいる。しかし、それと同時に、私の「身体」は反応してしまう。感知したり認識することとは別に、私の身体は、投げかけられた言葉によって、ビクッと反応してしまう。胸が痛くなってしまったりする。当時の私は、それをどうすることもできなかった。なので、ふざけた感じの延長線上で、「やめてくれよ〜」と言う風に伝えるなどするしかなかった。相手も悪意がある訳では無いためだ。だが、悪意なく刺激の強い言葉を使う子は、その個性故に、ふざけながらだとしても「やめて欲しい」と伝えた際のニュアンス、遠回しでのアプローチをキャッチしたり、汲み取ることは難しい。それが良い悪いではないが厳しいものがある。それらに関しても当時の私自身、感知したり認識してもいた。

悪意が無い相手には言えない、強く対応できない。しかし、身体は反応する。この板挟みがキツかった、耐えきれない面があった。


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②-3
<悪意にさらされての自らの転身>


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そうしたことが徐々にエスカレートしていった。その結果として、高学年になって少し経った時に、複数の友人からいじめ的ないじりを受けた。そこには、今までに無いような「ドロドロとした明確な悪意」があった。私は悪意にさらされた。その悪意は、私の尊厳の領域、私のエネルギー領域を犯した。明確に今までに無い深さで犯された。が、怒りを爆発させる自分から少し離れていたこと、ピエロ的な感じでふざけたり他者を笑わせる状態の自分として皆と関わっていたこと、相手が友人であったこと、また直線的な悪意には対応できるが当時の自分としては困惑するようなドロドロとしたタイプの悪意だったこと、そうしたことが影響していたためか、対応できなかった。深く自分の尊厳が損なわれたのを感じることしかできなかった。

その日の終わり、私の中で何か途切れた。いい加減にしろと。つけ上がるなと。優しくして「やってあげていた」のに、「ふざけるな!」とさえ思ってしまっていた。

次の日、まずはプロレスごっこにかこつけて、友人の一人をシメた。今までの私と空気感が違うのをキャッチしている子もいるのを感じた。


🔻【③】🔻
転身した自らの変化と方針


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③-1
<転身した自らの当時の方針>


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悪意を受けて心境が変化した後の私の目的は、友人たちの悪意の有無を問わず、心身へのネガティブな刺激の強い言葉や態度、いじり等が私に来ないようにすること、また私という存在に構わないでもらうことだった。そのために、私は表面的な認識としてではなく、「根本的にヤバイ奴」というのを感覚的、無意識的に刷り込ませ、友人であっても(友人だからこそ)無意識的にでも下手な関わり方をできないようにしようと動いた。また常に、グループの外側に敵やターゲットを作り続け、意識を内に向けさせない、仲間や私に向けさせないようにし続けた。


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③-2
<不良的、非行的なアプローチについて>


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当時の私自身は、大人や社会に対して、個々の部分において思うことはあれど、深い領域での怒りや幻滅などをそこまで強く持っていた訳ではなかった。それは私が周囲の大人たちに大切に育てられたり、親族以外の大人たちともいろいろと関わる機会があったことも影響していると思う。

また当時、不良的、非行的なアプローチ(分かりやすい問題行動的なアプローチ)をすることは、むしろその心理的な面において同情の余地があるものとして、「ある意味カテゴライズされ許容される傾向もある」と言う風に感じていた。これは当時の時代の雰囲気や、大人、同級生、子供たちの中に、こうした認識や感覚がある程度の割合であるという風に感じ取っていた。そのため、その不良的、非行的な枠とカテゴライズされるような在り方をするのも、心理的に「下」に見られると感じられたため避けたかった。

また私自身、ザ不良、ザ非行的なこと、例えば不用意に何かや誰かを強く傷つけたり、何かしらの店や他者などから盗むなど、法に触れるようなレベルでのルールを犯すなどをすることが、心への負担などの面から実際的にできない、私にとってはこの方面は刺激が強すぎる、と思ったのも大きかった。


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③-3
<不良的な子や問題行動を起こす子への認識>


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なお、不良的な子、問題行動を起こす子たちに対して、当時ネガティブには捉えていなかった。全体で見たらいろいろな子や状況がある、あったと思うが、私が体験した子たち、少し接したり親しくなった子や人たちは、その本質が優しい子が多かった。当時関わった問題行動の傾向がある子たちは、家庭環境や諸々が影響していたと思う。また大人たちの心の面での不理解があるなとは思っていた。その上で、だからこそ一緒にされたくなかった。自らの尊厳のために。


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③-4
<ヤバイ奴と感じさせるためのアプローチ、その当時の認識>


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はじめは、友人たちと今まで通りに交流しながら、感覚的に許容範囲の倫理観を超えていく言動や行動を取り、意識や無意識に、「友人ではあるがヤバイ奴」というようなことを刷り込んでいった。「得体のしれないヤバさ」、これを感じさせる。近くにいても、私の領域には踏めこませないように。

先にも示したが、得体のしれないヤバさを感じさせるにあたって、それが行き過ぎて表立ってしまうと、非行に走っている子、何か心に抱えている子、家庭環境などに何か問題がある子などといったイメージ、またはそうした感覚を友人や周囲の子供たち、教師、周囲の大人たちに感じさせることになる。それが愛や優しさなどからだとしても同情などの心理的に下に見るような働きが生じてしまいやすくなる。それは当時の私にとって感覚的に好ましく無いと感じられた。また非行的な方向性に行くことは実際的にも様々な点でリスクが高すぎると思った。そのため、「得体の知れないヤバさ」を友人たちや周囲に感じさせていく形にした。

大きな問題にならない程度に、友人たちや周囲にちょっとした言動や行動を通じて「得体の知れないヤバさ」を、実感させていく。ビクッとする、ギョッとする感覚を体感させていく。集団の中でその「ラインのようなもの」が、何となく感覚として「視覚的に」感じられていた。そのラインを超えると周囲が表立たない形だがビクつく。ギョッとする。それぞれ個性があるため、影響を受けていない子もいるが、そのラインを超える程度を上げていくことで大方の子がギョッとする。また直接会話していない周囲もギョッとする。そうしたところも意識して行う。これを悪意としてではなく「無自覚かつナチュラルにやっている」という形で受け取られるよう、悟らせずに行っていった。

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悪意を持ってやるというのは、裏を返せば、光故にやっている、なっているということだ。訴えだ。無自覚の意図がそこにはある。受け手によってはそれを感知し、そこから同情だったり、マウンティングだったり、ジャッジだったりが起こり得る。それがポジティブな動機やエネルギーであれ、ネガティブなものであれ、そうした作用が生じること自体によって、各々において許容できるものとなる。特定の許容できる認識的、心理的な範囲で扱えるものとなる。これは自覚しているかしていないかに関わらず、人間としての年齢関係なく、感覚的にそれぞれの内面において生じ得る現象だと、当時感覚的に捉えていた。そのため、私は友人たちや周囲に対して、その皆の認識的、心理的な許容範囲を超える刺激や影響を「悪意なく与える存在」として、各々の感覚的なレベル、無意識的なレベルで刻まれるように動いた。それが刷り込まれれば、「奴ら」は下手な動きは無意識の内にできなくなる。無意識に刻まれた得体のしれない恐怖で、踏み込み切れなくなる。私の領域に真に入ってくることや影響を与えることはできなくなる。私の尊厳が保たれつつ、人が私に不用意に寄ってこなくなり、私を傷つけることが無くなる。そうした構造を当時の友人や周囲という「社会および環境」の中で構築すること、それが目的となった。


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③-5
<⑤友人や仲間たちへのいじめ的なこと>


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友人たちが私に対する認識や対応が変わってきたら、次は外側に敵や何かしらのターゲットを作り、そこに友人たちの意識を向けさせていく。何もしないと意識が内に向かって、全ての子ではないが、悪意なく、時に若干の悪意が含まれる形で、私にとってネガティブな刺激が強いこと、不快なことが生じることになる。だから、常に意識を何かに向かわせないと行けない。

グループ内の誰かを標的にするのは、この状態の時の私であっても、好ましくは無かったので基本はできなかった。ただ、はじめの段階では、グループ内に居た悪意なく乱暴を働きがちな子(この子は本当に悪意は無いが振る舞いが私だけでなく周囲にも粗暴なところがあった)をグループ内で仲間外れにしたり、無視するなどの制裁を行い、ある程度黙らせるなどはした。



🔻【④】🔻
私が行っていた、いじめ的なこと


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④-1
<友人たちや仲間内へのアプローチ>


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先にも示したことの繰り返しになってしまうが示す。仲間内での言動や行動を、周囲のここまでのラインなら、冗談や悪ふざけの範囲で済むものとされるもの、嫌な思いをする子がいたとしても、その子自身の認識の中でも、一般的な倫理観の中での嫌なこと、嫌な体験で済む範囲のもの、そうしたほぼ皆が無意識に感じているこの「ライン」に対して、その範囲を超える言動、行動をする。表面上は楽しげな会話や笑いというオブラートに包んで行っていく。

単に激しい言動や行動をするということではない。単に激しい言動や行動をするということでは、この「ライン」における一属性、一つのバリエーションに過ぎなくなってしまう。そうではなく、様々なタイプの子たちが無意識に共通して持っている倫理的な感覚、その「ライン」を超えることをする。それを段階的に行い、周囲の反応を、表面上の言葉や態度ではなく、各々の内面での反応をキャッチしチェックしていく。内面の中で反応している子と、反応する傾向が弱い子を選別する。あまり反応しない子たちを中心に、様々なことをけしかけさせる「実行部隊」を形成していく。

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また表立って、いじめ的なものや大人への反抗的なことはやらない。それは先にも示したが、言い方が悪いが、当時の時代的に見え透いたもの、ある意味人間的な同情の余地あるものという空気感が感じられていたためだ。そうしたテイストは基本は纏わず、あくまで友人との「遊び」の中でのことという範囲内を崩さずに、忍ばせていく。表面的ないじめや喧嘩等といったものとして周囲や大人たちに周知されることは、目的からズレるし、ある種ダサいものとなっていた。あくまで友人たち、仲間内での交流という非言語的な感覚的枠を崩さずに、その中で、共通認識化された倫理観から逸脱した感覚を実感させ、その恐怖を植え付けること、それが目的だった。後にこの枠はある程度崩れていくとしても、当初はこうした意識で行っていた。仲間内での表立っての反発等は生じない形にしながら、私という存在が皆が持っている倫理観から逸脱した存在であると、表面的な部分ではなく、感覚的な部分で実感されていくようにすることを目的としていた。


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④-2
<クラスの子達への印象付けと、仲間たちへの扇動>


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これも繰り返しになるが示す。
友人たちに共通認識化された倫理観から逸脱した感覚とその恐怖を実感させるアプローチをある程度仲間内で行ったら、次は何かしらの目的を持たせ、友人たちの意識を外部に向かわせる。私に向かわないようにするために。そのために、外に敵を作ったりする。

また、友人たちだけでなく、クラス中のあらゆる同級生たち、またクラス外の人たちにも、私が言葉にできなくとも、根本的にヤバいヤツと実感や認識されるようにした。しかし、私に対する認識を、表面上、不良や非行という概念を貼り付けて認識することができないような範囲内のものとなるようにもした。表立って「不良や非行、問題行動のある子」という概念が張り付けられた範疇での、反発や抵抗、対応、攻撃はできない、しずらいという形になるようにもした。そうした形にした上で、友人たちを焚きつけていくために、同級生たち(また後には教師たち)の各グループに、からかい的なものを生じさせ、また因縁を付け敵対関係的なものを生じさせ、対外的なパフォーマンスも兼ねた「遊び」を企画して実行していった。それも大人たちへの反抗的なニュアンスの付かないもの、むしろ初めのうちは、教師や大人たち、同級生たちから見て、「ふざけていろいろしているが一般的な生徒たち」という枠組みで認識されるような立ち振る舞いやイメージで動いていた。

そのうち、友人たちを何かしらの目的のために動かし続けないといけないため、大人たち、教師たちに対しても、従わない、科目によっては学級崩壊「的な」ことも、あくまで遊びの雰囲気、軽い雰囲気を纏わせて実行していく形になる。ただ、大人や教師たちは私の本当の目的のために利用させてもらっていただけで、言い方は悪いが「どうでも良かった」

先にも示したが、私は大人たちに対して思うことがないとは言わないが、基本周囲の大人たちには大切に育てられていたし、正直同級生などの子供たちよりも、大人の方が一緒にいて楽だし、心地良かった。当時の私には、あらゆる面で子供たちは野蛮だった。私自身も子供であるし、ふざけたりもするが、接する子の個性によっては、質的にキツイものがあった。大人への反抗は当時のこの件に関してはほぼなく、むしろ私の本質的な目的のための隠れ蓑として、友人たちを焚き付けたり、友人以外の周囲、同級生等へのパフォーマンスとして利用させてもらっていた。

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また当時の私は、良く喋れた。口から生まれてきたのかと教師から言われるほど良く喋れた。ものすごく頭が回転していて、それをマシンガンのように言葉で出せた。

ターゲット認定したグループや個人には、男女問わず論破的なこともしていた。また、あえて詭弁的なものを用い、相手に突っかかってこさせ、物理的な力をチラつかせたりして黙らせるなど、時と場合に応じて様々なものを使い分けていた。言葉もそのための一つの手段としていた。これらも全て友人たちの意識を外に向けさせるため、外に敵やターゲットを作り、そこに向かわせるためのパフォーマンスとしてやっていた。扇動していた。


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④-3
<個性的な子達へのからかいへの流れ>


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クラスのやんちゃ気味なグループ、強気な女子たち、他のクラスのグループ、教師たちなどを、敵対的なもの、ターゲットとし、友人たちを中心に扇動していったが、ある程度すると各グループと拮抗状態になる。こちら側は積極的に敵対的な関係を盛り上げていくが、相手側としてはただただ不快なだけである。はじめの内は相手側もムキになって取り合っていても、こちら側の「暖簾に腕押し的な茶化した態度や対応」に対してシンプルに不快になり、冷めてこちら側を避けるようになる。抗争的なものであればある種制圧したようなものだが、私個人の目的としては外れてしまう。拮抗状態になると、ターゲットとして何かしらコトを起こしづらくなる。盛り上がらなくなる。

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はじめは個性的な子や、弱い子などは標的としないように意識的にしていた。また無意識的にもしていたと思う。そのため、対外的に敵やターゲットを設定する時も、まずはクラスのやんちゃ気味な子たち、次に教師や気の強い女子たち、他のクラス(あまりやっていなかった気がするが)など、そうしたところを敵やターゲット認定して友人たちを焚き付けて行った。そのうち、各グループと拮抗状態になっていき、盛り上がらなくなっていく。友人たちを動かすための対象、ターゲットとなるグループ等がいなくなっていった。そうすると、男女関係なくクラスに居る個性的な子へとターゲットが移行して行きやすくなってしまう。そして、クラスに居る個々の個性的な子達へのからかい、いじりへと進んでいった。

これも周囲から見て、また大人たちから見ても、いじめと捉えられない範囲のものとなるようにし、笑いのエッセンスを入れ茶化した。友人たちを動かすための目標とし、また周囲へのパフォーマンスとして、個性的な子達に対して、いじめ認定やトラブルにならない範囲での、しかし大多数における、「無自覚の倫理的な許容範囲を超えた要素も含んだ、からかい及び遊び」を行っていた。表面上はあくまで子供たちの遊び、あまり好ましくは感じられないが、他者が諫めるような形で声をかけるまでには至らない、そうした範囲内でのものになるようにした。


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④-4
<暴力的なパフォーマンス>


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時に暴力的なパフォーマンスもした。個性的な子達の内、身体付きの良い子へ、難癖をつけ、喧嘩的な流れになるように友人たちを使って雰囲気を作らせる。喧嘩的だが、あくまでエンタメ的な感じになるように集団で演出させる。それで相手の心も追い詰めつつ、暴行する流れを作る。そして、一発腹を殴る。それで相手は泣く。相手が身体付きが良くとも、集団に囲まれ、小馬鹿にするようなエンタメ化された流れが作られ、尊厳も心も折られた形となり、物理的に反撃しようともしなくとも、更に心が折られるような逃げ場の無い流れの中で、物理的な攻撃も加えられれば、相手の性質によっては崩れる。それを一緒にやっている仲間たち、友人たち、また周囲に見せつけ、暗に私に下手な関わり方をするとこうなると印象付けていく。一緒にいるが、常に近づかせない。そうした周囲との関係性を構築していった。


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④-5
<自分の性質における限界>


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ここまで、私のしていたことに対して、「表立って気づかれないように」皆の共通認識化された倫理観から逸脱した言動や行動を行い、無意識領域に恐怖を植え付けていく等のことを言ってきた。確かにそれもあった。しかし、実行する私の性質を考慮した際、このやり方が精一杯だった。周囲に皆が無意識的に持っているような倫理観やその感覚から逸脱するような言動や行動を取ることも、相手を殴るということも、それをすることで私のハートが冷たく干上がり、胸が痛くなる。殴る時も、場合によっては、とてもじゃないが、そんなに何発も殴れなかった。手が震える。それを周囲には最大限気付かれないように行っていた。鋭い子は気付いていたかもしれないが、表面上のものはともかく、私の深い領域の心理や目的が気付かれている感じは、当時は受けなかった。直接的に「ザいじめ」をすることも、私の心が崩れるからできないのであって、その上での私の性質を加味しての精一杯のアプローチであった。



🔻【⑤】🔻
いじめ的な在り方がもたらしたもの


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⑤-1
<平和を自らぶち壊したということ>


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私が変化して以降、元々和気あいあいとして平和だったクラスが、恐怖で重苦しくどんよりとしていった。私に対して、フレンドリーに冗談を言って、「お、おう…」と私を困惑させていたようなクラスの女子が、私を前にして何もせずとも謝るようになった。

過去における、私のグループ内の悪意は無いが少々粗暴な友人が、将棋が強い個性的な女子と、クラスで将棋をしてタジタジになっている姿。将棋が強い女子の勝ち誇ったふてぶてしい態度。表面上の個々の心理的な領域での反応は様々あれど、その背後に流れるもの、全体の感覚における「平和感」、それぞれが活き活きとしている感じ、平和な情景。「今日も平和だなぁ」。そうしたものを瞬間的に感じる時があった。意識化される時があった。それが好きだった。それを私自身がぶち壊した


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⑤-2
<個性的な子への悪質な行為の際に感知したものと私の葛藤>


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ある時、いつものように一人のターゲットとなる個性的な子に対して、集団でのいじめ認定されないような悪質な行為を行っていた。その中で、キャッチした。いじられている相手の子の目から直観的に感知された、私に対する、敵視でも憎しみでも侮蔑でもなく、憐れみ。相手の子は私の内面、そして相手の子に行っている行為の本質的な意味をある程度見抜いていたと感じた。それを直観的に感じた。

そうしたことがあった夜、私は強く悩んだ。思った。

「何をやってんだ俺は。本当はこんなはずじゃ無かったのに。本当はあの子のような個性的な子たちを守りたかったのに。でも、やらなきゃ俺がヤられる。やり続けないと俺がヤられる。止まれば俺がヤられる。」

私の心は板挟みになって締め付けられた。結局当時の私は、「ヤり続けること」を選ぶしかなかった。


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⑤-3
<ヒトラーへの直観的、感覚的、理解>


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上記の出来事があった後頃、ふと直観的にヒトラーの気持ちが分かったと、感じられる瞬間があった。多分記憶が違わなければこの頃、小学生の時と思う。当時、ヒトラーに対する知識なんて、ほとんど無かったと思うし、特段関心も持っていなかった。が、直観的に感じた。私と「同じ」だと。

国家という集団としても、ヒトラー個人としても、細かなところは違えど、体験の質や規模、程度は違えど、本質的には同じだと感じた。ある面から見た時に共通するエッセンスがある。それを直観的に感じとった。あくまで主観的にだが「理解」を感じられた。

これは一般的に言う、「親の気持ちが分かった」的なやつと似たようなものだ。私の場合、そうしたことが、身近な人に限らず、ある時パッと見かけた人だったり、歴史上の人物だったりのある側面に対して、ある時点で急に分かる、キャッチするということがある。というか、ある側面において、表面的な形や規模などは違えど、「それ」になっていることがある。そこで気付くことが起こる。多くの人でこうした経験があると思われる。それがこの時起こった。
 


🔻【⑥】🔻


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⑥-1
「いじめ的な在り方の終わり」


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⑥-1-1
<中学生になってからの動き>


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中学生になっても、この流れは続いた。同級生に対してはもちろん、部活の先輩、特に下級生に対して、教育係的な形で高圧的に接してくるタイプの先輩に対して、周囲を巻き込んで相手の精神を追い詰める流れをエンタメ的に作ってから、ボコボコにして泣かせたりしていた。もちろん、表立ったトラブルにはならないようにしながら行った。先に説明したのと同じように、これは先輩自身に対しての制裁的な意味もあるが、周囲のギャラリーたちへの見せしめでもあり、心理的な牽制でもあった。表立って感じさせ無いようにしながら、無意識に刷り込み、私に対して一定の距離、不用意なことはできないというような壁を作らせるようにした。

最終的に、同じ部活内のターゲットとなる子を、いつもの手法で、周囲を巻き込んでエンタメ化して殴りつけた際、失敗して病院送りにしてしまった。正確に言えば、相手の子が頭が良く、軽く殴られた際に肉体的な致命傷はほぼ無いと思われる段階で大げさな演技をした。大げさに苦しむ演技をしながら記憶が間違っていなければ、手を喉の奥に持っていき、自ら吐こうとしていた。部活中だったこともあり、それが大事になってしまった、相手が殴られたことを上手く大事に持っていった。周囲、特に大人は気付いていなかったようだが、私は気付いていた。相手の子が頭が良かった。

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⑥-1-2
<同級生を殴り大事となったことによる転身>


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同級生を殴り、それが大事になると、教師たちに当然のように詰められる。3人ぐらいの教師たちに、応接室のようなところで詰められた。その際に、一人の先生がある程度の理解を示してくれて庇ってくれた。その姿を見たことと、私自身こうした在り方から本当は解放されたかったことから、もうこの在り方は止めようと思った。その契機になった。

私の目的ははじめから周囲の友人たち、子供たちから、傷つけられないようにすることだった。自分の尊厳を守ることだった。友人たちとは、学校という社会の中で、関わらない訳にはいかない。学校や友人関係という枠から離れるということは当時の私には精神的な面、実際的な面でハードすぎると感じられたため、考えられなかった。

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⑥-1-3
<触れてはいけないものとなったということ>


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同級生を殴りそれが大事となり、今までのような在り方を止めようと決意してからすぐに、私の周囲からサッーと人が離れていった。

いじめっ子的な子がその立場から離れると、各々の尊厳の回復のためなどで、今度はいじめっ子が報復されたり、不満を溜めていた子達に逆にいじめられるというような現象が起こることがあると思う。それが起こらなかった。私は一時的に「触れては行けないもの」となった。今まで関わっていた友人たちからもだ。報復的ないじめをされることもなく、排除されることもなく、悪意を向けられることもなく、とにかく「触れては行けないもの」としての距離感で接せられた。私が印象付けた「ヤバイ奴」という印象、また各々に与えた実際のギョッとする、ビクッとする体験、感覚が、「触れては行けないもの」という立ち位置を私に与えた。

その時、直観的に感じた。私の尊厳が、領域が、ドロドロの悪意によって犯された後に思った、「ヤバイ奴と印象付けて、誰からも傷つけられないようにする、誰も接して来なくさせる」、この考え通りになったなと。当時は思わなかったが、今の私の感覚で言うと、まさにある種の「願いが叶った瞬間」だったと思う。善悪は抜きに、私は「平和」になった。


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⑥-2
「今回の話の後の私、またその影響と、自己見解との関係性」


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私は今回伝えたいことがあるため、この話をしている。この話はここで終わるが、私は基本、人に恵まれている。いろいろあっても何かに守られている感がある。これは「人に恵まれている」「何かに守られている」等といったことを自己認識上で持ち合わせていないと感じる人たちへの「マウンティング的なもの」として示しているのではない。小さい頃から感じていたことを情報として示している。

今回話したことも、この後、すぐに人に助けられる。状況は好転する。この時のことが私に影響を与えたとしても、それがずーっと同じテンションで続くわけではない。状況は変わる。そこでまたいろいろ起こっていく。今回伝えておきたいことがあったため、その説明のためにこのエピソードを示した。

また、現時点での私から私の人生を俯瞰して捉えた時、大きな「断絶」を見いだせる。意識や状態が大きく「ダウングレード」することになった断絶だ。今回話した内容は、その断絶の「遥か前」だ。子供の頃の話だ。今回話した体験が私に影響を与えている面はあるだろうが、私が今回の内容に限らず今まで示していたような見解等が、今回の体験「のみ」で形成されているわけではない。それも示しておく。


🔻【⑦】🔻


🔴(注:⑦-2:⑦-3:⑦-4(有料版だと⑦-5)は、有料記事、有料書籍にて、無料版との相違箇所あり。注:終了)🔴


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⑦-1
「ネガティブ動機の行為だとしても快が生じていたということ」


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(注∶以下は注意して読んで欲しい。巻き込まれないように。注∶終了)

今回のエピソード、当時私は原因や動機はどうであれ、この策略を考えて実行することに「快」を感じていた。やらないで済む環境であれば、それに越したことはないかもしれないが、私はそこに少なからず、いや、決して少なく無い形で「快」を感じていた。自己の発揮、表現の場となっていた。だから、ある程度の期間できた。続けられた。俺はこれを認めないといけない。

更に胸糞悪いと思われることを言う。過去のこの話を書いている時でさえ、そこに「快」を感じている。私にとって、個としての感覚としては決して好ましいと言えない体験だったとしても、別の面から見た時に、そこに「快」はあった。自らのある面を発揮する際、発揮している際の「快」、それがあった。故に今書いている時にも「快」が生じうる。それも認めないといけない。



 🔴(注:以下の「⑦-2」にて、有料版での相違箇所有り。注:終了)🔴

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⑦-2
「ネガティブ動機の行為だとしても快が生じる現象等の陰とされるものへの、俯瞰した視点からの現象的な肯定的な認識と受け止め、そこからの個々や全体の諸現象へのアプローチ」


 🔻🔻【無料版:⑦-2】(注:以下、無料版の内容。注:終了)🔻🔻

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上記で示した私の過去のいじめの件、およびそれに対して「快」が生じているという見解を聞いて、心理学や、スピリチュアル等における、各分野やそれがフィットする感性の人々において、望ましくないもの、ネガティブなものと認識したり感じられた方々もいると思われる。そうした認識や感覚も、上記のようなことを言っていた私というフィルターを通してだが、理解できるし、それこそ共感できる部分がある。また、それによって、ありがたいことに、より望ましい状態に全体が変化していたり、特定の水準に収まっているところがあると思う。しかし、私の感性における全体観、人類観においては、そうした見方、感じ方、認識とは異なる面がある。そして、そのような感じ方、認識が、私の感性から全体をより変質させる、上記に示したような過去のいじめの件、またそれに「快」が生じるなどの現象自体が生じなくなっているような段階に持って行くことに繋がると感じている。

私の自己認識としては、私は本質的にお人好しな面がある。私の観点からにはなるが、全体で見たら、いじめる側も、いじめられる側も、それに加担する側も、(今回はいなかったが)止めようとする側も、傍観する側も、良い悪い等の感情的な反応は一旦置いておいて、私が当時体験したことよりも、よりハードなレベル感で体験された、体験されている方たちもいると思う。それでも示す必要があった。意味があった。当時の私および今この文章を書いている私の行動や目的の動機はどうであれ、そこに含まれているエネルギーはどういったものかに関わらず、各々の個性に合った発揮や表現、アプローチ、在り方ができると、そこには「快」が現象として自動的に発生しやすい。これは、あらゆる依存症や止められないクセ、習慣、繰り返すパターン等にも通ずるものと思う。これは特定の個人だけではなく、集団、グループ、組織等にも当てはまると思う。もっと言えば、文化、伝統、国家、特定の価値観や感性のグループ、分野学問においても同様と思われる。

今回示したことを、シンプルな「こうしたことをされたら快だよね、こうしたことをされたら不快だよね」「こうなるとプラスだよね、こうなるとマイナスだよね」といった、個としての身体的、精神的、または社会通念的、表面的な目的上などにおけるシンプルな感覚を元とした二元的な価値判断の尺度での良し悪し、快不快の判断や感知の領域ではなく、現象として捉え受け止める領域から「肯定」し捉えることで、個人、集団、更には人類を、質的に変化変容させていくことができ得ると感じている。

何事にも通じることと個人的に思うが、表層的な事柄を解決したり変化させたとしても、その表層上の事柄が生じる背景の原因や要因といったものにアプローチしていない場合、対応した事柄は生じなくなったとしても、「同様の「質」の別の事柄」が発生してくる、という現象が起こる傾向が強いと感じている。根本を変えなければ、似た質の事象が繰り返されることになると感じる。

今回示した私の過去のいじめの件、それを示すこと等において「快」が発生するという件に関して、特定の心理学やスピリチュアル等において、望ましくないもの、ネガティブなものという判断や観点に対して、全体性において「現状の安定性や快適性を保つ機能」等として、個人的に捉え、かつ認めている。それらの尺度および感性の人々や存在たちが照らし出してくれた、望ましくないもの、ネガティブなものという認識および感覚を、私というフィルターにおける、全体および人類の質的変革という観点において、自己、他者、集団、人類、全体を、より深く捉えていく、照らし出していく、発掘していくための反響版として、協力者として捉えている。それぞれの表面上の主たる役割は違えど、全体の一体性の中においては「協力者」であると捉えている。変化させようとしている、「対象となる現象自体」も含めて、「皆で練り上げていくもの」と思っている。

(余談:より深くはそうした体験自体、変化自体のために、個々が分割されているとも思っている。根本的な意味での「変化そのもの」が、全体における、ある程度深い領域における「目的」、目的というよりも「機能そのもの」と思う。余談:終了。)


 ✅余談:有料の記事、書籍の場合、以下に有料版バージョンでの内容の記載有り。余談:終了✅



 🔴(注:以下の「⑦-3」にて、有料版での相違箇所有り。注:終了)🔴

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⑦-3
「①陰と判断されることによる動揺、その利用、②そうした行為の担い手の「無自覚のシグナル役」という全体における役割、③役割自体の平等的な尊さ」


 🔻🔻【無料版:⑦-3】(注:以下、無料版の内容。注:終了)🔻🔻

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(注:先に示しておく。私の観点からは、各々の「役割」は皆、「平等に尊い」。注:終了)

上記で示した私の過去のいじめの件、およびそれに対して「快」が生じているという見解から、特定の尺度や感性において陰とされる場合があると思われると示した。その際、私を陰と判断した側において、別の尺度から見て、「マウンティング」だとかの「陰」と判断されうる要素や、そうした「マウンティング等の陰と判断されうるエネルギー」が付着していて、それがキャッチされる、指摘される場合があり得る。

精神的な領域において、意識的、無意識的なレベルで何かしらの尺度においての望ましいもの、正しいもの、陽とされるもの、ポジティブとされるもの、という自己認識、またはそうしたエネルギーの中にいた場合、それから外れたことを体感レベル、感情レベル、エネルギーレベル等で知らせるために、現象として「動揺」が生じうる。その動揺を利用し、何かしらの目的のために活用していく、そうした動きや働きが、人間という器を通し、これも現象として、個々や集団において生じる場合がある。

動揺させた上で動揺からの回復の道を示し、そこに導く、押し込める。そこで各々の目的がなされるようにする。そうした流れを基本とし、他の様々な心理的、物理的な諸要素を組み込み、ターゲットへの効果性を高めていく。この流れ自体を見えなくもさせていく。隠遁していく。そうした傾向になりやすい全体性の中での性質や個性、役割もある。集団も分野もある。全体の状況、水準、流れによっては、良い悪いを抜きに、上記に示したような現象が、個人だけでなく、集団において生じうる。そうした全体の状況、水準、流れであることを、上記に示したような方法で暗に示す、「無自覚のシグナル役」になりやすい性質や「役割」もある。個人や集団においてあると思う。

私もそうかもしれないぞ。ちゃっかりしっかり、搾取しちゃうぞ。

💠搾取。
💠もっと搾取。
💠きっと搾取。

注意しな。

 
 ✅余談:有料の記事、書籍の場合、以下に有料版バージョンでの内容の記載有り。余談:終了✅



 🔴(注:以下の「⑦-4」(有料版では「⑦-5」)にて、有料版での相違箇所有り。注:終了)🔴

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⑦-4
「①ネガティブ動機の行為だとしても快が生じる現象の昇華のアプローチ、②個々の事象への対応から、土台自体を変えることを見据えてのアプローチへの転換による、個々の受け止め」


 🔻🔻【無料版:⑦-4(有料版だと⑦-5)】(注:以下、無料版の内容。注:終了)🔻🔻

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私は今回示したような、いじめ的な現象、またそこに動機や理由はどうであれ「快」が生じたという現象等を、認めている。私の観点から肯定している。現象としてある意味なるべくしてなったと捉えている。肯定している。個としての私がいじめ的な扱いを受ける側としてこの現象に遭遇したら阿鼻叫喚だと思う。そうだとしても、私の本質的な観点からは認めている、肯定している。その上で、現象を変える、ニーズと、ニーズの充足形態とを切り離す、そしてより望ましくなる形で別の形態として満たさせる、そうしたパターンにする。それが根本的な解決や解消、昇華への一つのアプローチとなる、と捉えている。

これは言葉で言うのは簡単と思われるが、個人レベルでもだが、人類レベルでやるにあたっては、様々な要素をやる必要が出てくる。だからこそ、集合意識、集合エネルギー、基礎的文化、社会システム、社会インフラ、国家等といった土台を変えること、変えていくことが重要となる。既存の土台の上で派生する個々の事象に対応することは、本質的なレベルでも前進にはなると思うが、個々への対応のみの意識で行っていると、根本的な変革は気が遠くなって感じる。似たような内外的な事象が、手を変え品を変え、繰り返され得る可能性が出てくる。そのため、新しい土台に変える、移行させることを念頭に置いた上で、私たちが成り立つにおいて影響を受けている既存の土台、集合意識、集合エネルギー、基礎的文化、社会システム、インフラ、国家等を活用しながら、新しい土台に変える、移行させていくことを中心とする。その上で個々の事象を捉えていく。受け止め対応対策していく。それにより、バラバラだった個々の事象が繋がりを持って見えてくる、受け止められるようになってくる。実際的なレベルでの連動も起こってくる。起こってくる可能性が生まれる。

シンプル、ただやるには創意工夫、個々の智慧と革新が必要だ。個々を認めつつぶっ壊す。各々の役割、人間だけでなく、あらゆる現象、存在、といった「役割たち」に付着していた「何かしら」を破壊する。そして、新しい質で、形態で、発揮される、表現される、機能する、可能性、方向性を開き、現出させる。させていく。


 ✅余談:有料の記事、書籍の場合、以下に有料版バージョンでの内容の記載有り。余談:終了✅



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⑦-5
「ポジティブ、ネガティブ、バランス、私はどこにも属さないということ」


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私はネガティブ寄りになって、悲観もしない。罪悪感や劣等感に埋没もしない。ポジティブ寄りになって、該当する尺度や感性を楯にした無自覚マウンティングも特別意識や選別意識もしない。
バランス寄りになって、コトの平均化や中央値を押し付けたり、あらゆる尺度での「先端」「単一的な視点」への無自覚マウンティングも不理解もしない。
そのように努めていく。

以前も同じようなことを言ったと思うが、外からこうしたスタンスを陰陽、バランスなど、いろいろ言うのは自由だ。どれも認めるがどれにも属さない。その上で、自らの見解を言う。やる。

私は八方美人どころの騒ぎではない。360°美人だ、イケメンだ。そして、四面楚歌だ。いや360°楚歌だ。常に限界だぞ。

🔶
話を戻す。
ポジティブ、ネガティブ、バランス。これらの現段階での水準で起こりやすいパターン。これらが、精神面から実際面まで、人類を、全体を、特定の領域に留めているところがあると思っている。

それが、繰り返されるループを解決させようと言いつつ、残存させ続けている要因ともなっていると思う。それを、私の心が、感情が反応する、教える。根本的なレベルでドラマをやり続けていると。

だからな、謝ってやる。自分の見解を言いつつも上から目線になっていることを、大衆に媚びずに謝ってやる。プライドを一切下げず、謝ってやる。土下座の姿勢で、顔だけ天を仰ぎ続けてやる。そして、首を痛めてやる。覚悟しろ。

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⑦-6
「後悔の打破、大衆には媚び無いスタンス」


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今回話したエピソードにおいて、私は一切の後悔を打破する。後悔が生じたとしても、それへの受け止めを自らにとって、真にしっくりする形で受け止める。「しっくり来る受け止め」とは、大多数向けの尺度、感性から見出すということではない。ただ、既にある大多数向けの尺度や感性がしっくり来るなら話は別だ。本来的には自らの内から見出すものだ。敵を作る表現だが、大衆向けの尺度や感性に単に「与する」ことは自らを折ることになる。圧力に屈することになる。ただ、それもまた認める。一時的にしろ、そうした役割を担っているからだ。また受け止めを自らの内から見つけること、これは罪悪感、劣等感などでも同様だ。

また、私の自己認識では、私はサイコパスではない。私の自己認識とは言え、残念だったな。ただな、サイコパスで無いことによる大衆への「媚び」もしない。すり寄らない。サイコパスとされる性質、役割の魂、人々にも、敬意を示す。サイコパスとされるものやその在り方に物申す者たちにも敬意を示す。「役割」「ただ平等に尊い」。私のプライドから叫んでいる。叫んでやる。私は360°美人で加工イケメンで、つけ麺だからな。汁は魚介で、麺は極太だ。しっかり覚えとけッ! 俺は既に汁は忘れてるからな。お前らだけが頼みの綱だ。



🔻【⑧】🔻


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⑧-1
「ネガティブ体験をしている人、していた人たちの顕在レベルでのニーズに寄り添い切れないということ」


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上記を踏まえた上で言う。私はネガティブな体験をしている人たち、していた人たちの顕在レベルでのニーズには寄り添いきれない。ネガティブ体験をしている人、していた人を目の前にしたら、対応するし、自分の観点から、相手の感情をイタズラに逆なでするようなことを言い過ぎることもしないように努めている。また努める。しかし、真にそのニーズに応える適任ではないだろう。だからこそ、誰かのために泣いたり怒ったりしてくれる役割たちにありがたく思っている。それが相手に寄り添う際に、愚痴だったり、様々なタイプのネガティブとされうるエネルギーが生じたり、内包していたとしても、そうしたネガティブとされうるエネルギーであるからこそ、それを内包した役割であるからこそ、誰かの救いになる。誰かが抱えているエネルギーを解放する、回復させる役割となれ得る。ニーズを満たせる。そうした面がある。

私も私の個性に応じたネガティブなエネルギーを段階ごとに有しているだろう。ただ、私自身の望む方向性は全体をより良くすることだ。故に、それに取り組むにおいて、徐々にネガティブとされ得るエネルギーの担い方、担うネガティブなエネルギーが変質していくと思われる。ネガティブなエネルギーを内包した上で、全体をより良くするという役割からは、変化していく、「推移(水平移動)」していくと思っている。そのため、ある一面に肩入れする形での寄り添いや、上記に示したようなネガティブを内包しているからこそできるような寄り添いは、やりきれなくなっていくと思う。今回示してきたような私の認識や受け止め方だと、他者に対して個としての感情的なニーズ等を満たすようなエネルギーを発しきれない場合がある。そこに力も注ぎきれない。私の確からしさから外れてしまえば、心やエネルギーを注ぎきれなくもなる。だから、個々のニーズを満たす形では、寄り添いきれない。

今回のいじめの件等といったエピソードに対して、私は今回示すような捉え方、受け止め方がしっくり来ている。そして、社会的な様々な観点における多数派の人々、スピリチュアルや精神世界などの「ウケ」もとらない。そんな私が、「全体のために」と思っている。思ってしまっている。


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⑧-2
「人々の集合意識等の認識やエネルギー領域のみならず、具体的、物理的な領域をやろうとしている理由」


✅<注>✅

以下に、私が全体のために物理的な領域をやろうとしている理由や見解を示す。なお、この話は私の人生の中で、意識や状態がダウングレードするような「断絶」があった後の話だ。今回話した子供の頃のいじめの話の遥かに後での話だ。

✅<注:終了>✅

🔶
全体を考えた際、全体の水準を高めるにおいて、精神的な領域、特殊能力的な領域をやるにしても、物理領域、社会的領域でのアプローチや抜本的な変革が重要と感じた。そのため、私は物理的な領域をやろうとしている。

物理的な領域をやるのは、単に現状の社会問題や課題の解決的な側面での意味合いからだけではない。新たな物理領域を土台として、精神的な領域、特殊能力的な領域、また個人レベルではなく、集団や人類的なレベルでの引き上げや質的変質、それに伴う形態的な変質へと繋げていくためである。

その全体の質的変質、形態的な変質により、既存の問題とされる現象自体も、その根源的な要素からネガティブとされる刺激ではないような別の質、形態の現象へと昇華させることができ得る。その結果として既存の問題とされる諸現象が、解決、解消されている状態へと全体を持って行く。また既存の問題とされる諸現象のパターン自体も解決、解消されている状態へと持って行く。

その上での、新しい全体の環境でのテーマ等や現時点での質や形態ではないが、陰陽とされるような現象のゆらぎがあり、それへのアプローチが新しい質や形態、テーマとして成されている、そうした世界となっている、大多数の人々において無自覚の内にグラデーション的になっていく、とも捉えている。

具体的な領域、精神的なこと、本質的なことに、他者が全く興味も関心も理解も実感も無くとも、そんなの関係なく、理解されずとも気付かれずとも、求められずとも、そうした人々も含めて全体を、私の感性からより良く素晴らしくしたいと思った。そうした体験があった。

関わった人々においては、いつも通りの日常だったかもしれない。だからこそ、そうしたエネルギーがこの世界の背後で生じていることを実感させられた。私は認めた。その体験があった日の帰宅時に、自分の認識を改めないといけないと強く思った。そして誓った。

私は、傲慢さを素晴らしい性質の一つの表れとして捉えている。その上で、今以上に傲慢だった俺を「よりマイルドな傲慢」に変えた人類というもの、これは認めないといけないと思った。変化後においても、今の質感とは異なる形で、他者、他集団、他存在への、存在としての上下的な感覚は付着していた。そうしたものが、軽視もしくは蔑視とかではなく敬意を持った形でのものへと変わっていた。

その上で、人類の一面を担う人々、そうした方向性に対して、私の考えていること、それを理解したり興味関心を持つこともまた厳しいというのも感じていた。それは私に素晴らしいと感じさせた、発するエネルギーの元になるその性質や個性故にだ。だからこそ、私の考えていること、やろうとしていることが理解できずとも、感知できずとも、直接的に実感できずとも、そんなの関係なく、私から見て各々において質的により良くなって欲しいと思った。

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私の見解等を直接的に伝えることによって特定の層には届くかもしれない。それにより、間接的には全体にプラスになると思う。しかし、私が素晴らしいと思った人々、人類の性質には直接的には届かない、届きづらい。自らが示していることを実際的に形にすることで、物理領域に反映させることで感知や理解は明確にできずとも、表層的な部分での利益等を活用して行き渡らせることで、「私の考えていること等と直接的にリンクしない人たち」にも提供できる。興味関心等や必要性等が無くともジョイントし、提供すること、行き渡らせることができる。そうした人々の感覚としては、ある時点よりも何か良くなったと体感され得る形で提供できる。

もっと言えば、各々において感覚的に何か良くなったことすら分からなくても良い。各々が全体に対して提供でき得る、その発するエネルギー、性質や個性を素晴らしいと思うからこそ、理解や感知、興味関心等を無理にさせずに提供したいと思った。そうした人々の主体的な変化として自らの考えていること等が一定の効果性を持ったとしても、そうした人々へのリスペクトから無理強いはしたくなかった。だから、理解や感知できるか、意識化できるかに関わらず、自らの観点からより良く変化していけるように「環境そのもの」を変えたいと思った。

🔶
精神的、特殊能力的な変化を、より質や形態的に促進するにおいて、物理的、社会的な環境が、現状においてネックとなっていると感じられた。そこを変化させることが全体の水準を引き上げるには不可欠と思った。特に私が素晴らしいと思った性質等の人々においては、私の考えていること等への関心と理解力、感知力の程度がその個性や性質故に、高くはないと思われたため、物理的、社会的な環境そのものを変えるというアプローチがより効果的と思った。気付かれなくとも良い、むしろ無理に気付かせることはしたくない。その存在へのリスペクトからしたくない。

ただ皆が、より活き活きとしてくれたら嬉しいと思っただけだ。



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⑧-3
「ここまでのまとめ」


🔶
これが私だ。今回示した「いじめの話」「全体のためになぜ物理的な領域をやるのかの話」のような様々な面がある。それを示しておく。判断は委ねる。ただ、「私は基本変わらない」

こうしていくことで、私の動きが限定されなくなっていく。結果、周囲も不都合に感じること、不可解に感じることが生じずらくなっていく。自分も周囲も持っているものを最大限出せる状態であることが、望ましいと思っている。だから、スッキリさせていく。全てを。


✅🔻🔻以下、書籍版の追加部分へ🔻🔻✅









🔻【Z】🔻
関連内容等について


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🔴< 記事の有料版と無料版、記事の書籍化について:詳細 >🔴


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「今回の内容の経緯と、動画化、音声化について」


今回の投稿だが、以前に投稿した、私の「物事への解像度について」といった記事等の流れで、改めて自らの理想理念についての内容を示す予定だった。しかし、直観的に今回の内容を示すことが重要と感じられたため、また私自身もしたいと思ったため、今回の内容に変更した。

また今回の文章の内容は、今後動画と音声化する予定だ。ただ、動画化や音声化するにあたって、大まかな内容は変更ないと思うが、細かな表現等は、分かりやすく変更すると思われる。また、流れが変われば、別の事柄が優先される可能性がある。それも示しておく。

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「記事の有料版と無料版について」


また、今回の記事において、無料版と有料版を用意している。有料版では一部の箇所を変更している。これについては、以下の記事で詳しく説明している。有料とさせてもらった意図として読み手にとって重要と思われるものを簡単に言うと、フィルターの意味で有料化させてもらった。内容を表現する際に、一部刺激の強いものが含まれるため、記事を有料化する機能を使って、フィルタリングさせてもらった。ほぼほぼ同じような意味の内容を、無料の記事の中にも示している。そのため、内容だけ確認するのであれば、無料の記事で十分と思われる。

また刺激の強い表現といっても、私から見てなので、何かセンセーショナルな過激さを求める人にとって、そのニーズを十分に満たすようなものとは言えないと思われる。そうした点からも、今回の内容に関しては、読む際には無料の記事を奨励する。上記の理由以外の有料とさせてもらったその他の意図等については、繰り返しになるが、以下の記事で説明している。

また有料版での相違箇所は、3区画程で、文字数でいうと、約1400文字ほどだ。同じ内容部分でも、無料版の方が、文字数が基本的に多くなっている。無料版の方を後に創ったので、内容としてもしっかりしているかもしれない。

なお、無料版の方で、有料版での表現の相違箇所はどこの区画なのか分かるように表記してある。また、有料版の方でも、無料版での内容を表記してある。無料版の表現を先に示し、その後に有料版での表現が来るようにしている。刺激がある表現だとしても多少は緩和されると思われる。

✅※参考記事:

💠有料版の記事を出したこと、有料の書籍を出したこと等について


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「記事の書籍化について」


また今回の記事内容は書籍化もした。この書籍化した内容は、今回の記事内容にプラスして約1万6000文字分、派生した内容を記してある。この追加分は、後日、note等の方でも無料版として投稿を予定している。

この記事に含まれていない書籍化したものの追加部分については、有料化するような刺激の強い箇所は想定されていない。そのため、書籍化したものの追加部分は、同内容を全て無料で投稿する予定だ。ただし、こちらで改めて投稿する際、内容や表現等を分かりやすくするための修正や追加等はする可能性がある。状況によって変わる可能性はあるが、来月か再来月までには出したいと思っている。

またこの書籍化した内容にも、noteの記事の無料版と有料版で相違のある箇所両方を記載している。相違のある箇所の部分も分かりやすく表記している。

有料の書籍として出す意図は、この記事の有料版として出すことと同じく、フィルターとしての意味から行っている。またこの書籍化に関しては、私が個人的にやりたかったからというのも大きい。それ以外の意図に関しては、先にも述べた参考記事に記している。

この書籍についても、追加分は少し時間は置くが、無料で公表する予定であるので、特段購入する必要はない。書籍に追加した部分を、早めに確認したい場合のみ、購入価値があると思う。ただ、上記でも示したが、追加分を無料投稿する際には、より分かりやすい表現に修正して投稿する可能性もある。そのため、書籍版で購入したものの方が、内容の質が下がって感じられる、ということが生じる可能性がある。それも踏まえた上で、気になる方は検討してもらえたらと思う。

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「有料で購入する際には、書籍版を奨励」


なお、有料版と書籍版は同一価格で提供させてもらっている。有料記事版と書籍版は同一価格だが、書籍版の方がメリットが大きい。そのため、💠🔴💠「有料記事版か書籍版の購入を検討される場合は、基本的には有料記事版ではなく、書籍版を奨励」💠🔴💠している。なお、有料版の記事の方は、電子書籍関係のアプリ等を使用せずに、手軽に相違箇所を確認したい、といった方には購入価値があると思われる。

価格設定の理由等を以下に示す。有料版の記事と書籍版を提供するにおいて、今回はフィルタリング的な意味および自らの変化変容的な意味等が大きいため、それぞれのプラットフォームで設定できる、最も低い価格を設定したいと思った。それぞれのプラットフォームで設定できる最低価格だが、書籍(kindle)の場合は99円、noteの方は100円だ。有料記事版と書籍版で内容的な開きがあるため、価格差を設けようとも思ったが、今回は最低価格付近で提供することの方が優先度が高いと感じた。そのため、note側の最低価格に合わせた100円で、両者同一価格として提供させてもらう形とした。


✅※参考コンテンツ:

💠有料記事版

💠書籍版


🔔< 関連コンテンツ >🔔


今回の内容と特に関連するコンテンツを以下に示す。

✅※参考記事:1群

💠街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成

💠地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

💠AI等による生存に関することをまかなえる段階に入った際の、生存ベースの人類社会から、個の発揮における内的感覚(幸福感等)ベースの人類社会への転換と、二重構造化

💠①現状の資本主義システムによる支配構造について、②その担い手や元になる性質や能力、ニーズの、より調和的かつ快となる形で発揮できるシステムや環境の構築と提供、③新システムにおける新たな支配構造の構築を回避するための、支配構造の構築等を担う性質や能力、ニーズ等を持つ潜在的担い手たちの倫理観およびその元になる意識や状態、エネルギー等の、全体と調和化する色合いへの昇華、それを意図したシステム、文化文明、環境の構築と提供


✅※参考記事:2群

💠見えない何かしらを感知する能力に気付き高めるアプローチについて

💠意識、状態、感覚等の指し示すものの整理と、関連性、レイヤー構造について

💠状態や記憶、イメージング等を活用したエネルギーアイテムの作成について

💠潜在意識等の作用により、ベースとなる体験世界、流れを創っている、ということへの段階的な気付きや深まりの実感の仕方

💠①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など

💠①運命を切り開くアプローチ、②引き寄せ的な観点からの「愛」という認識および体感について、③本質的なことや超常的なことを伝えたり、体現する役割の存在たちが担う、伝えたいこと、働きかけたいことの、人間の器としての性質を肯定的、またはニュートラル的な現象と捉えた上での、それぞれの表現発揮への落とし込み、それによる全体への浸透力の向上について


✅※参考記事:3群

💠幸福感についての見解 ~ 幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ ~

💠①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ

💠①別側面の多様なニーズの充足や統合による結果としての個々の発露と全体との調和、②幸福のままでの更なる幸福への流れ、③課題問題等の認識に基づくネガティブベースでの解決解消のアプローチのポジティブベースのものへの変換、④ネガティブを安全性等を持って体験できる場の提供 ~意識や状態のダウングレード技法~


✅※参考コンテンツ:

💠預言書と私のプライドについて
   
 🔻記事(note)
 🔻動画(YouTube)
 🔻音声①(Spoon:バックグラウンド再生可)
 🔻音声②(stand.fm:バックグラウンド再生可)

💠【見解】①自らの物事への解像度の程度:②見解やアイデア等の傾向と好み:③アイデア等に関する有識者等とのやり取りのスタンス:④この世界の本質的な完璧さと祝福性
   
 🔻記事(note)
 🔻動画(YouTube)
 🔻音声①(Spoon:バックグラウンド再生可)
 🔻音声②(stand.fm:バックグラウンド再生可)

💠【見解】①私の歴史と政治に対するスタンス:②自己の次の段階に至るためのアプローチ:③近況について等
   
 🔻記事(note)
 🔻動画(YouTube:分割版有り、1~8)
 🔻音声(stand.fm:バックグラウンド再生可:分割版有り、1~8)


🔔< 見解等を提供や共有する際の取り組み意識意図 >🔔


また顕在的、潜在的にそれぞれの方向性や観点から何かしらプラスになる人、かつ内容に関してショックや動揺が生じない、またはご自身で影響をカットや対応できる人にのみ、届くように意図する。

内容の提供や共有に関するその他の取り組み意識については、以下の記事で示した内容に基づく形とする。


✅※参考記事:

💠①闇や陰の光化:②陰的影響をカットできる橋渡し的存在たちを介しての、それぞれの管轄の光や陽を体験している存在たちへの提供:③それによる各領域の豊かさの質的向上

💠①自己の見解等の受け手として、何かしらプラスになる人々、かつネガティブな刺激等を受けない人々の意図:②そうした人々への伝播による全体にとってより効果的な浸透

💠気付き等をシェアする際の取り組み意識および留意点

💠気付きやアイデア、アプローチ等を提供やシェアする際の取り組み意識  ~ネガティブベースのものにおける、リアリティのあるおとぎ話としての提供やシェア~


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