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①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ

<はじめに>

今回の内容は、以下の記事における、「幸福感という観点からの、全体における理想の内外的環境と、その補足」
の項の内容を元に、その具体的なイメージを活用しながら示していく。

※参考記事:
幸福感についての見解 ~ 幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ ~

※上記の参考記事における、「幸福感という観点からの、全体における理想の内外的環境と、その補足」の項の内容を、以下に示す。
以下の内容に関連するものを、本記事にて示していく。




【①】


★★★
<参考記事の該当部分>

「幸福感という観点からの、全体における理想の内外的環境と、その補足」


※参考記事:
幸福感についての見解 ~ 幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ ~

※上記の参考記事における、「幸福感という観点からの、全体における理想の内外的環境と、その補足」の項の内容を、以下に示す。

****************

上記を踏まえた上で、幸福感という観点から全体における理想的な内外的環境として以下を示す。

個々の幸福感に根ざした独自の型を生み出し表現発揮できる。
またそうした在り方を行うことを奨励しサポートする。
独自の型を持つ個々が有機的に繋がり合え、影響し合える。
結果、集にとっても、全体にとっても、有益となり、更なる幸福や喜びを生む。
質的な向上を成す流れが絶えず生み出され続け変化変容し続けることが出来る。

という内外的環境を幸福感という観点から理想とする。


<補足>
個々の幸福感に根ざした独自の型についてだが、誰かの模倣であっても、そうした模倣を行うことがその魂としての深い段階での表現形態であり、深い幸福感を生むのであれば、それは独自の型、在り方である。
ここで言う独自の型とは、表面的に唯一無二とみられるようなもののみを指すのではなく、深いレベルでの独自性を指す。
個々の存在としての独自性に根ざしたものを指し、その上での表層のバリエーションの一つとして、唯一無二のような表現形態を成す型もあるということ。

さらに深い領域においては、それぞれの体験世界がそれぞれの役割や管轄を担う形で対等な形で存在し、優劣や望ましい、望ましくない等も無い。
ただ、今回の私という個として着目している方向性としては、個々が深い領域での幸福感に根ざした独自の型、在り方を構築し、それで有機的に繋がり合え、全体にも望ましい影響を与えていくという方向性を指し示しているため、その方向性ゆえに、望ましい望ましくないという二元的な方向性が副次的に生じる。
それは体感的、感覚的にも生じ、それを認識化して、示しているということ。

方向性(欲求、ニーズ、志向性、意識が指し示すもの)が生じることで、照らし出される二元的な対象や事象(ある方向性において見出される望ましい望ましくないなどの感覚感情、身体反応、それに基づく認識等)が生じる。
その対象や事象は、主体側の認識上において付加されたメタ的な認識(主となる対象事象に関連して紐づけられた抽象的情報)である。
(感覚感情、身体反応等も同時に生じるためリアリティ(実際感、現実感)が生じる。)

その対象や事象自体に良い悪いなどの二元的な性質が付加されているわけではない。
存在としてはニュートラルである。

また、より深く言えば、対象に対する基礎的な認識自体も抽象的なもの(人間の認識の中に存在するもの)であり、それ自体が存在しているわけではないと言える。
方向性を見出した時に、二元的な意味合いが付加されうる対象や事象自体の存在も、絶対的なものとして存在しているわけではないということ。

これは物質的なものや自然現象的なものであってもしかり、そのように「存在している」として人間という器が感知している、リアリティ感を持つ形で切り取られ認識されているということ。
その本質は、それ自体が深い意味で存在するという訳ではないということ。

※話がそれたと思われるが重要な点、幸福感に関してはもちろん、個人的に掲げる新しい質の世界、人類の器自体の革新等とも繋がってくる部分。

※参考記事:
地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成

科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性

①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など



【②】


★★★

「目的や方向性による対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感について」


上記の<補足>で示したものに関連する内容(二元性、現実、リアリティ感、等)を、具体的なイメージを活用しながら、説明していく。

例、海外に旅行に出かけようとした際、前日に雪が降ったことにより、空港に行くための電車が運休になったとする。
この際、電車が運休になったこと、およびその原因となった雪は、旅行に出かけるという目的との関係においては、「雪」という対象に関して、望ましくないもの(二元的な認識(善悪、正誤など)、「悪(この例えだと行きすぎかもしれないが)」などといった感覚および認識が(意識的もしくは無意識的に)生じたり、言葉に出さずとも生じていたり、または他者から言われたらそのように認識する場合がある。
(望ましくないものとしての認識の仕方を納得しているということ。)
(人によって、そうした感覚が生じない場合もあるし、その感覚の明瞭さは異なる。
そこは個々の性質や意識等によって変わってくる。)

この際、旅行に行くという目的において、それを妨げた対象を指し示す「雪」という認識は、それ自体としては集団において、望ましくないものという付属的な認識(および感覚)は付加していないと思われる。
(個人レベルであれば、雪に対して望ましくない、悪であるといった認識や感覚を持っている方もいるかもしれないが、集団における一般的な感覚としては、特にそういった認識は付加していないと感じられる。)

旅行に行くという目的との関係性において、「雪」に「望ましくないもの(悪)」という認識が雪に関する付属情報として付加された、と捉えることが出来る。
付属情報として付加されたというのは、意識的に感じていなくとも無意識的に認識が生じている可能性が高い状態になったということを指す。
それ故に、実際に旅行時の例に直面した場合に、あまり深く考えていない方であっても、他者からの指摘などにより、すんなりと、無意識の内に、当たり前のこととして、旅行に行くという目的に対し、それを妨げたものとして雪は望ましくないもの、という、そうした捉え方ができたり、受け入れられる。
その雪は望ましくないものという意識的もしくは無意識的な認識を元に、事象や他者の指摘や見解を認識し、受け入れ、会話したり、やり取りしたり、判断や行動するといったことが生じうる。

ただ、本質的には「雪」そのものには、二元的な善悪、正誤、望ましいもの、望ましくないものといったそうした情報は付加されていない。
(上記に示したように個人レベルではあると思われる。
雪という概念(認識)に対して、二元的な善悪等の認識が一体化した形で内側で作用したり、作用しやすい状態になっているということ。)

またある特定の集団においては、雪という対象や概念に対して、二元的な情報、その他様々な情報が付加した状態で、共通認識化されている場合もあると思われる。
例(あくまで想像)、農業従事者や農業関係の業界分野などにおいて、農作物を育て出荷するという目的軸から、それを妨げることに繋がりやすい悪天候全般、特にここでは「雪」に対して、望ましくないもの、悪(悪というのは言い過ぎかもしれないが)という、二元的な付属情報が付加されている(意識的というか、無意識的、また当たり前的な感覚で付加しているなど)可能性がある、など。
そしてそれを体験として共有しているため、ある程度強固なリアリティ感が生じているということ。

対象や事象そのものには、目的や方向性(また個人や集団の感性等)によって生じる、二元的な付属情報(善悪、正誤、好き嫌い、優劣等)は本質的には付属していない。

旅行に行くという目的などが無い場合、状況によっては雪が降ったことによる景観の変化やその美しさにポジティブな感覚や感情が生じたり、雪が降ったことによって雪だるまやカマクラを作ったり、雪玉を投げるなどの雪遊びを楽しむことが出来る場合もある。
また雪により交通機関が停止することで、仕事場や学校等が休みとなり、それに喜び等を感じる場合もあるだろう。

対象そのものに善悪等の二元的な情報は付加されていない。
対象そのものは二元的な尺度とは別に成り立っているものであり、ニュートラルであるということ。
(余談だが、対象や事象そのものに対して二元的な尺度を取り払わずに解決解消しようとした場合と、二元的な尺度を取り払って解決解消しようとした場合では、質が異なる。
間を取るというアプローチは、二元的な尺度を取り除いて捉える場合、そもそも二つの起点となる対象が存在しないので、間を取れない、そういった点からも質が異なるということ。
感覚的な意味での間を取るだとしても、二元的な認識が採用されている状態でのそれと、取り払った上での解決解消とでは質が異なる。良い悪い、優劣ではなく色合いの違いとして。)

しかし、特定の似た性質、感性、目的、またそれらを基礎として形成された価値観や認識体系等を持つ、個々人、および集団、グループにより、対象や事象に対する二元的な付加情報(二元的なものだけでなく様々な付随すされる認識たち)が生じ、感覚等を同じくすることで共感や理解し合えることによって、同じもしくは似た性質や感性、価値観等を持つ集団において、リアリティ(現実感、実際感)を持つもの、確からしいものとして、受け止め、捉えられるということ。

そうして形成され活用されている認識は、単なる概念としてだけではなく、感覚や感情、身体的刺激等も持つものとして、また自己だけでなく、他者もその感覚や感情、身体的刺激等を共有できる(できていると感じられる)がために、それは真実(現実)であるというリアリティ感が(意識的または無意識的に)付加されることになる。
それは、その基礎となる認識を活用して対象や事象、物事を捉え、そして体験し、感覚や感情、身体的刺激等を得ることで、また他者や集団と共有することで、記憶や思い出としても共有することで、とても強固なもの、とても強固なリアリティ感として、存在することになる。
(これは個人だけでなく、特定の集団、また人類全体を、特定のリアリティ感の中での体験世界へと導く。)


長所短所、強さ弱さ、満たされている欠けているなど、(これらが二元的な感覚や認識だけでなくグラデーション的、複合的であったとしても)、目的などとの関係性により、生じたもの。
本質的には対象事象に付属しているものではないと捉えられる。
あってないようなもの。

故に、望ましい方を捉え、それを元に進むことが目的や望みを叶えるにおいては効果的であると認識できる。
その際、それに基づいて動いた際の結果や到達への過程で、陰面(心身の基本的な感覚として、また目的軸においてネガティブ等とされる、感じられるもの)に引っ張られたり、それが苦しみ等を体感的な現象として生む場合もある。

全体が変化すれば、これらも変わるし、今も全体としてどんどん質が変わっている、変わってくると感じられる。

これは単なるポジティブ思考とも色合いが異なる(役割が異なる)。
そもそもポジティブもネガティブも選べる。
何を手繰り寄せ進むか、体験するか、満たすか、ということ。
(本質、ニュートラルに根差したポジティブ)


★★★

「二元的な尺度を取り除いた際の対象自体の相対的存在性」


上記では、以下の2点について示した。
「雪」という基本的な概念に関して、それに付随する情報は、目的や状況等との関係性の中で付随したものであり、その基本となる概念(ここでは雪という概念)そのものに付加しているわけではないということ。
しかし、同じような性質や感性、目的等をもつ集団やグループにおいては、感覚や感情、身体的刺激等が生じる形で、共通認識化され、基本的な概念に対して、それに付加された情報(善悪、正誤、好き嫌い、優劣などの二元的な情報からその他の情報も含む)が癒着した形(一体化した形)で、リアルなものとして感じられるということ(当たり前のものとして感じられるということ)。

別記事でも示したが、以下のリンク先の3P目の内容において、エスキモーの雪に対する概念では、各種の雪の種類や状態等が雪という概念の派生的なバリエーションとして存在しているのではなく、単一の基本的な概念として存在していることが示されている。

https://www.gengoj.com/_UPLOAD/post/136.pdf

これが示しているものは、基本的な概念というものもまた、相対的なものであり、絶対的なものでないということ。

例、海外旅行の例で言うと、雪に二元的な望ましくないという付加情報が付く可能性があると示した。
その二元的な尺度を取り除いた際には、雪は雪であり、望ましいも、望ましくないもない、良いも悪いもないということになる。
その上で、基本的な概念群自体が変わると、そもそもの二元的な尺度を取り除いた上での、元となった対象や事象自体、ここでは「雪」自体、明確に切り取られて認識されるものではないということ、あってないようなものであるということを、ここでは示しているということ。

日本語的な基本的概念群を活用して、海外旅行に行く際に雪が降ったことにより、交通機関が停止して空港に行けなかった事例を捉えた場合と、エスキモー的な基本的概念群を活用して捉えた場合の認識や認知の仕方は日本語的な基本的概念群を活用して捉えた場合とは異なる。
この例だと、ちょっと言葉が変わっただけで、大した違いはないのでは、と思われるかもしれないが、とても大きな違いを示していると捉えている。
基本的な概念群が変われば、五感覚等で捉えているものに関してのそもそもの認知の仕方、切り取り方が変わる。
それにより、事象に対する認識の仕方、因果関係の見出し方、現象の作用の見出し方等も変わってくるためだ。

例、図形を一筆書きするという遊びがあると思うが、これ一つの辺を一つ一つ、別物として捉えている場合(A)と、一筆書きするということに特化した法則性(複数の辺が伸びている点を始点として図形の外周を一まとめとして捉え、視点に戻ってきたら別の辺に移行する、という感覚やイメージ(B))を見出し、それを実際に一筆書きをする図形を見る際の見方に適用することで、図形の見え方や認知の仕方自体であったり、一筆書きをしたり、考える際の感覚が変わる(より軽く快適に行えたり、よりスムーズにスピーディーに行えたりなど)のを体感できると思う。

◆◆◆

<(A) ↓ 各辺を一つ一つ認知するパターン>


<(B) ↓ 図形の各辺を外周、内周として一まとめに認知するパターン>


この画像は見ずらいので、認知の変化が生じるのを体感することは少し厳しい面があるかもしれない。ちょっと弱いかもしれない。

図形の一筆書きにおいて、各画像に示した各矢印(または円)が「辺」の認知とその意識上での移動を表している。
赤色の点を始点として、青色の矢印(または円)が始点に戻ってくるまでの各辺の認知と意識上での移動を表す。
茶色の矢印(または円)が始点に戻って来てからの各辺の認知と意識上での移動を表す。

(A)では、一筆書きを行う際に、辺を一つ一つ認知し、意識上で移動させる捉え方(認知の仕方)を示している。
(B)では、辺を一つ一つ認知するのではなく、図形の外周を一まとめとして捉え、意識上で移動させ、視点に戻ってきたら、図形の内周を一まとめとして捉え、移動させる、というイメージ。
右側の図形(2)のように、始点に戻ってきた際に、内周と認知されるような形態でなく、単一の辺のようであれば、一つの辺として認知して意識を移動させる。

一筆書きを行うにあたって、この認知の仕方だと上手く行かなくなるパターン等もあるかもしれないが、辺を一つ一つ認知して確認していく認知の仕方、捉え方よりも、上記の捉え方(認知の仕方)によって、ある程度素早く、感覚的に楽に行いやすくなることを体感できると思われる。
(少し横道にそれるが、この見方(認知の仕方とその後の意識上での操作(一筆書きのための対象の確認))をできるようになれば、知識を入れる(情報を覚える)ということと、認知(および意識の使い方、意識等)そのものを変化させるということに関しての違いについても、認識しやすくなると思われる。)

またこの例と同じような方向性のものとして、日本語における「雪」という概念で「日本語的には雪とされる何かしら」を捉える際の認知の仕方と、エスキモーにおける各種「雪」に関連する概念により「日本語的には雪とされる何かしら」を捉える際の、認知の仕方の違いを、実感的に認識しやすくなると思う。
(こうした理解の延長線上として、現実や事実とされるものの認識の刷新と、その上での現実や事実の再創造等を見出せる。)

図形を見てはいるが、どのような見方を採用するかにより、実際の五感覚における見え方そのもの、また五感で捉えた際の感じ方そのものが変わる。
もっと言えば、「図形」を見てはいるが、この「図形」という基本的な認識を活用して見ることを止め、別の認識を活用して見るようにすることで、見ている「何かしら」に関しての認知の仕方、認識の仕方は変わる。
例、図形ではなく「人の顔」として見る、など。
その後の思考展開や判断、行動も変わる、そうしたことを示唆する。

例、エスキモー的な基礎的認識群で雪を見る場合と、日本的な基礎的認識群で雪を見る場合には、認識の仕方だけでなく、五感覚で捉えた雪やその情景の見え方、またその視覚的に捉えた際の感覚そのものも変わっているということ。
(これを実感化するには、少し注意深く生じている認知の変化や感覚の変化を捉える必要があると思うが。
何かしらの行為(スポーツであれ、仕事であれ、ゲーム(あらゆる文化、趣味趣向)であれ、学問であれ、日常生活であれ、全ての物事)、全てに当てはまることと思う。
そのため、人生の中で、特定の物事や行為に関して、認知や感覚が変化してきたこと、そうした経験があることを体感できる人もたくさんいると思われる。(行為や物事の習得や質的な上達の体感。)
さらに言えば、その認知や感覚の変化によって、モノのとらえ方、言語化する場合に適していると感じられる言語的な表現の仕方を、認知や感覚の変化に応じて変えた方が良い(変えた方がよりフィットする)と感じられたり、実際に変えてきたという経験がある方もいると思われる。)

日本語的な基本的概念群(またはエスキモーの言葉のような雪に対しての特異な基本的概念群での切り取りをしていない概念群、詳しくはないが英語とか、中国語とか)で、「雪っぽい何かしら」を見た時の認知の仕方、認識の仕方と、エスキモーの言語的な概念群を活用して「雪っぽい何かしら」を見た時の認知の仕方、認識の仕方は変わる。
そして、思考展開や判断、行動も変わってくる可能性があると思われる。
(特により複雑化した状況下や背景であればあるほど、基本的な概念群の違いによる、認知の仕方、認識の仕方の違いとそこからの思考展開、判断、行動の違いは変わってくる可能性が高いと思われる。)

また認識は感覚感情を生む。
故に、基本的概念群の違いにより生じた認知の仕方や認識の仕方の違いは、生じさせる感覚感情、また身体的刺激等にも違いを生み出しうる。
これがリアリティ感の違いを生み出すことに繋がるため、基本的概念群の違いからなる、認知の仕方、認識の仕方等は、新しい形のリアリティ感のある体験を生み出すことに繋がる。
それらに伴って、当然のように個々人の行動も変わり、集団としての人々の動きや流れ、現象等も変わる。

今現在も文化文明の発展(色合いの変化)によって、人々は認識できないかもしれないが、ある時点の人類と比べ、五感覚等で感知している「何かしら」に関しての認知の仕方、認識の仕方自体が変化し、またそこから生じている感覚感情、身体的刺激等も変化していると思われる。
それを過去の人類の段階(色合い)での体感しているものを認識できないため、人々の中において意識化しているものは多くはないと思われるが、上記のような認識と認知の仕方の変化を認識する特定の意識や状態の、色合いを持つ傾向がある人たちの場合、過去のイメージやパターンの直観的な把握、または過去の地球のエネルギー的なものを感知したり、それをイメージ等で受け取る性質を持つ傾向がある人たちの場合、過去の地球、特定の色合いを持つ地球と比べ、今が変化したこと、変化していることを、外界の文化文明の変化変容だけでなく、それに伴う内界自体の変化変容、人々の質の変化も感知できると思われる。
(幸せという感覚、およびそれを指す言葉であっても、その中身そのものが変わっている、色合いや質感が変わっている、などに気付ける可能性があるということ。)

※参考記事:
意識、状態、感覚等の指し示すものの整理と、関連性、レイヤー構造について



★★★

「人類という種、集団そのもののにおける可塑性、新しい質の基礎的な認識群(言語体系)の創造とそれによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性」


これらは人類という種、集団そのもののに可塑性があることを示す。
(根本から変化していくことが出来うるということ。)

また現実とされるもの、リアルとされるもの、モノ、物質、自然現象等もまた、「何かしら」を無意識の内に感知し(切り取り)、その存在を認識しているものと捉えられる。
また感覚や感情、身体的刺激等も、そのよりプリミティブ的には「何かしら」であり、それを感知することで、喜びや痛み、心地よさ等の概念(認識)に落とし込み認識している。
その感知されるもの、感知することは、視覚的な対象の認知の仕方が変わるように、基礎概念レベルから変えることが出来る。

こうしたことを科学的な観点からの概念を用いて解釈する場合も、その解釈を生み出している、その科学的な概念が抽象的な概念であっても、その抽象的な概念を生み出す元とになったものは具体的(リアリティ感のあるとされる)な対象から帰納的に見出された法則や概念であり、そうした概念自体が各国(各地の民族等)の基礎概念群により見出されたものである。
そのため、上記に示したエスキモーにおける雪という基礎概念の例のように、その根本とする基礎概念自体も変化するならば、根本から変化する可能性があるということ。
(この基礎概念は名詞的なものだけでなく動詞や言語的な構造などについてもしかりである。)

新しい意識や状態(認知等の違いも含む)に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく言語を創り出すことも良いかもしれない。
概念だけでなく、その元になる感覚、認識、感情、認知の仕方なども見出せる。
(状態や意識を創造、開拓し、それから各種の感覚、認識、感情、認知等を見出すということ。)
そこから、概念や言語、言語構造を創れる。

この新たな質の人工言語を活用することで、内外の事象(「何かしら」)に対する、感知や認知、切り取り方が変わるだけでなく、思考や心の働き自体も変えられうる。
その上で、蓄積と深化(進化)を行っていける。

これらにより、新しい質の感知や認知、思考や心の構造に基づく、この世界のとらえ方と、実際的な操作、働きかけ、やり取り、創造が可能になり得る。
それによる今までにない感覚や感情、身体的刺激等を体感させ、それに基づくリアリティ感を生じさせる、そうした在り方、文化文明、ネオ科学、人類の創造等も行える可能性がある。


少しずれたが、科学的な解釈も、現時点での科学も、それが再現性があったり、科学的な法則等を活用することで、新しい何かしらを生み出せたとしても、それはある時点での基礎概念群から生み出されたものであり、リアリティ感を持っていたとしても、それは固定化されたものではなく、全体の中で生み出された仮想的なものである。
科学だけではなく、人々の認識や解釈等も同様である。
これは深い意味での縁起である。

※参考記事:
意識、状態、感覚等の指し示すものの整理と、関連性、レイヤー構造について

科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性

①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など



【③】


★★★

「引き寄せ系による現実創造と集合意識上でのゼロイチの創造とに関する各意識やアプローチの統合による、既存パターンを大きく超えた在り方や創造を体験するパターンへの移行の可能化、様々な特異な意識や状態の神秘体験等による人間という器への刻み込みと、更なる深化など」


<引き寄せ系における現実創造と、その時点の体験世界上での人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ>


上記で示してきた(また以下に示していく)文章の内容にも、それらの文章の内容「自体」が再帰的に適用される。
その再帰的に適用される、されているという状態自体がある種の普遍的な構造(普遍だが可変する)である。

逆も同時的に成り立つし、矛盾も現象であり、矛盾として成り立つ。論理は破れている。
二元性も破れている。

二元性の破れの例、マジックなどで良くある、AかBかと二元的に思わせて、実際には、その二元的な軸とは全く別のアプローチをしているなど。
二元的な認識はある尺度上で生じている(見出せる)認識上の現象であり、別視点から見れば別視点での二元的な認識が見受けられる。

またそれらの本質は二元的に切り取られた存在は仮想的なものであり、認識により見出されているものであって、それ自体が存在しているわけではない。
自然的に感知している「何かしら」の特性と、主体の目的(無自覚の欲求等も含む)等の認識的なものとの兼ね合いによって、何かしらの認識(言語的表現)が適用され意識化される(「何かしら」から切り取られ存在を認知される。

「何かしら」そのものを指している訳ではないが、その切り取り方によって、何かしらを操作したり、働きかける(操作したり、働きかけていると感じられること)はできる。

その切り取り方は本質的には無限であり、無限の創造が可能である。


上記で示した創造は、スピアリチュアルでの引き寄せや創造主意識での創造とはまた質が異なるものである。

引き寄せ系での現実創造(さらに言うと創造主意識での創造)はある時点の集団において既存や一般的とされる事象や体験世界も生み出せる(一般的とされる既存の幸福感や体験のパターン、望みや願い等を生み出し体験できるということ)し、そうでない世界や事象も生み出せる。
(ある時点の体験世界において一般的とされるパターンを飛び越えたような奇跡や予想外のパターンや体験、体験世界を生み出せ、体験できるということ。)

そういったレベルでの話だが、ここでの創造は、集合意識などの領域において、ゼロイチを生み出すことに繋がるタイプの創造のことを指す。

引き寄せ系での現実創造(さらに言うと創造主意識での創造)は、引き寄せ創造主意識でベースとなる世界や体験の流れを生み出し、その内容としてゼロイチを生み出すということを行う際、その認識や意識状態として、この方面の本質的な認識や意識状態(本質的にゼロイチの創造を可能にしやすくする意識や状態)に至ることが、力を与える。

引き寄せ(ベースとなる世界ごと創るアプローチなども含む)のアプローチや意識の使い方と、この今回話したようなゼロイチから創造することを可能にするような意識や状態での在り方や力の発揮とを合わせることで、様々な点においてゼロイチ的な創造を生み出していくことが出来る体験世界を、この地球上においてそれぞれが生み出していく(体験していく)ことが出来ると思われるということ。

※参考記事:
潜在意識等の作用により、ベースとなる体験世界、流れを創っている、ということへの段階的な気付きや深まりの実感の仕方


<ある方面における意識や状態の変化をより深い質で体験し、刻み込むためのトリガーとしての神秘体験と、それらの体験自体の自己(より深い領域の自己等)のニーズにより生み出された体験や流れ、展開性、その選択、創造の可能性>


内容自体がその内容自体に再帰的に適用されること、またその状態をメタ的に捉えること。
逆も同時的に成り立つし、矛盾も現象であり、矛盾として成り立つこと。論理は破れていること。
二元性も破れていること。(陰陽は破れていること)、など。
こうしたことが腑に落ちることで、この方向性における認識や意識、状態が変わると思われる。

さらにこの状態を人間の器に刻み込む、切り替えさせるような神秘体験があると、より深くこの方面に関しての意識や状態が変化変容すると思われる。

(そうした体験を望む魂は)この方面の神秘体験を引き寄せ系での現実創造(さらに言うと創造主意識での創造)で生み出し(願ったり望み(直接でなくとも、疑問に思って腑に落としたいと無意識的に願うなどするということ))、それを体験する流れが生じたことを実世界で感知し捉え、乗る(アクションしたり、選択するなどするということ)ことで、この世界上で実体験できると思われる。
(実体験したとしても、より深くでは、自らのニーズが生み出した体験の流れ、体験、体験世界である。より深くはその流れ自体を生み出したり、選択すること自体もまた、創造することが出来るということ。
(意図的、無意識的にそうした流れや体験(体験世界)を自らが創ったことに気付くということ。)
(体験の主体者の意識や状態によっては、神秘体験時、またその後日であっても、上記に示したことに気付いていたり、自覚化、認識されているということ。
その上で体験が生じる、体験するということ。))

キーワードとして以下が見出せる。
認知的脱抑制、左脳の機能失った脳科学者(ジルボルトテイラー博士)、一瞥体験、般若心境、色即是空、空、ワンネス、など。


<到達した境地(状態、意識)の同方向の更なる気付きや神秘体験、もしくは別視点的な気付きや神秘体験等による、更なる深化(色合い変化)の可能性>


ワンネス(などの各種神秘体験や至った境地、状態など)に関してだが、ワンネスという言葉が指す意識や状態、体験も、様々な方向性や色合いのものがあると感じる。
それぞれに違い、境地の違い(全体における役割の違い、担っているものの違い)があると思われる。
そのため、一度ワンネス(などの各種神秘体験や至った境地、状態など)として体感される、直観される体験をした場合でも、別視点、別の質のワンネス(正確に言えばワンネスと呼ばれているものの内、別タイプの質のもの)を体験することが出来る可能性がある。
それにより、新たな境地に至ることができ、さらに過去に体験したワンネス等の神秘体験、特異な体験、境地等から得た認識や価値観、世界観、状態等と統合させることで(自然と統合されることで)、更にそれぞれにおいて奥深い領域に至れると思われる。

※参考記事:
①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など


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