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HKB(7)チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」(後編)

*本稿は、「チャップリンの秘書、高野虎市の「警鐘」(前編)」の続きになります。前編をお読みになっていない方は、リンク先の「前編」も是非どうぞ。


高野虎市、チャップリンの秘書をクビになる!

ポーレット・ゴダードの浪費癖に「警鐘」を鳴らす

昭和12年(1932)、アメリカに帰ったチャップリンは、「モダンタイムス」の製作に取り掛かります。その時、主演女優を務めたポーレット・ゴダードと知り合います。

チャップリンの「モダンタイムス」

チャップリンとポーレット・ゴダードは、その後急接近し、やがて一緒に暮らすようになります。これはチャップリンにとって三度目の結婚でしたが、籍は入れていなかったとも言われています。彼女はその後、映画「独裁者」でも主演女優となりました。

ポーレット・ゴダード(出典:Wikipediaより)

ゴダードの生活を近くで見ていた高野は、彼女の「金遣いの荒さ」に気づき、それを彼女に注意しことがありました。
それに激怒したゴダードがチャップリンに告げ口をしたせいで、高野はチャップリンから「クビ」を宣告されてしまいます。
 
ポーレット・ゴダードは、高野虎市がチャップリンの遺産相続人の一人になっている、というのも気に入らず、高野のことを快く思っていなかった、という説もあります。
 
実際は、妻と高野の間に板挟みになったチャップリンが、高野は本当に辞めてしまう事は無いだろう、とたかをくくって「クビだ!」と言ったらしいのですが、予想に反して高野は本当に辞めてしまいました。
 
それでも、チャップリンは、高野が日本に帰国するまでの生活費や多額の退職金も渡してくれたのでした。
 
その後、チャップリンは、1936年に「モダンタイムス」を公開したあと、ポーレット・ゴダードと共に再び日本を訪れています。
 
ゴダードは、金遣いが荒いと言うよりも、女優らしい「ゴージャスな女性」であっただけだったのかも知れません。
1942年に、チャップリンとゴダードは別れていますが、その後もふたりの仲は良かったそうです。

チャップリンが高野虎市に贈ったポートレート:左下に高野宛のサインがある(出典:広島県立文書館 資料より)

高野虎市、太平洋戦争が勃発し「日本人強制収容所」に入れられる

高野虎市は、昭和9年(1934)に「チャップリン撮影所」を辞職し、いったん日本に帰ります。
しかし翌年、また渡米し、チャップリンが設立したユナイテッド・アーティスツの日本支社長に就任し、チャップリンの映画の「日本配給権」をもらっています。
 
ところが、昭和13年(1938)に、最愛の妻、イサミが亡くなってしまったのです。そればかりか、傷心の高野に追い打ちをかけるように、次の災難が降りかかります。
 
昭和16年(1940)、高野はスパイ容疑でFBIに逮捕されてしまいました。これは、FBIの囮(おとり)捜査に高野がはめられたというのが真相で、スパイ活動をしたのは濡れ衣であったため、すぐに釈放されます。
 
しかし、同年、日本軍が真珠湾攻撃をしたことにより、今度は「日本人強制収容所」に入れられてしまったのでした。
 
昭和22年(1947)、ようやく高野虎市は、「日本人強制収容所」から釈放されました。
その後、高野は慈善団体に所属し、在米の日系人が「アメリカの市民権」を再度獲得するための活動などに尽力し、日米の懸け橋となるべく身を挺して活動したのでした。

昭和27年に淀川長治氏(左)の取材を受ける高野虎市(中央)出典:広島県立文書館 資料より

昭和35年(1960)、日本に帰国した高野虎市は、広島に住んでいました。晩年は、市内の病院に通院していましたが、昭和46年(1971)年に広島市内の病院で亡くなります。
チャップリンが亡くなる6年前のことでした。享年86歳。
 
一方、チャップリンは、昭和27年(1952)、ロンドンに向かう途上で、アメリカ政府から国外退去命令を受けてしまいます。いわゆる「赤狩り」の犠牲となったのです。
チャップリンは、その後、スイスで暮らすことになりました。
 
高野虎市が亡くなった翌年の1972年、チャップリンは、アメリカの映画芸術アカデミーから「アカデミー名誉賞」を贈られます。
 
彼が、授賞式に参加するためアメリカに帰国した際、チャップリンのもとを、黒柳徹子さんがインタビューに訪れています。
彼女が「日本から来ました」と挨拶すると、チャップリンは涙を浮かべながら、握手した手をしばらく離さなかったそうです。
 
おそらく、「日本」という言葉を聞いて、1952年に高野虎市と分かれて以来、再会を果たせなかった彼との様々な思い出が、脳裏に去来していたのでしょう。
 
チャップリンは、1942年に結婚した最愛の妻、ウーナ・オニールとスイスで幸せに過ごしていましたが、昭和52年(1977)に永眠しました。享年88歳。
現在、チャップリンは、ウーナ・オニールと共に同じ墓地で眠っています。

ウーナ・オニールとチャップリン。1944年頃(出典:Wikipediaより)

後日談として:高野虎市が故郷広島に寄贈した「警鐘」

昭和7年(1932)、高野虎市は、チャップリンより一足先に帰国して、故郷の広島の八木を訪れていました。
残念ながら、チャップリンの広島訪問は実現しませんでしたが、高野虎市は彼の人生の証(あかし)を地元に残しています。
 
それは、高野は地元の人々の為に、「警鐘」を寄贈したことです。
残念ながらこの「警鐘」は、1991年の台風で倒壊してしまい、今は台座だけとなりましたが、今でも大切に保存されています。

太田川沿いに立てられた、高野の寄贈した「警鐘」:上に鐘があり、河川の増水時にそれを鳴らして危険を知らせる(出典:広島市公式HPより)
現在も残っている「警鐘」の台座(出典:Wikipediaコモンズより)

なぜ、彼は「警鐘」を地元に寄贈したのでしょうか。
それは、彼の故郷の八木地区は、太田川と三篠川の合流する地点のやや下流にあたり、昔から水害の絶えないところだったからです。
 
下の地形図を参照してください。
中央上に見える「オレンジ色」の山裾の箇所が、高野虎市の郷里の「八木地区」にあたります。

水害碑が伝える広島の記憶(出典:広島市公式HPより)

図の中の字が小さくてわかりづらいのですが、「赤い注釈と線」の指し示す先が「水害碑」のある場所です。過去の水害や土砂災害を忘れないために地元の有志や自治体が建立した「水害碑」が、こんなにも多くあったのです。
 
尚、広島市八木3丁目には、2014年8月20日、この地を襲った豪雨による「土砂災害」の記憶を留めるため、2023年9月1日に「広島市豪雨災害伝承館」が開館しています。
 
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表紙の写真は、チャップリンが高野虎市に贈った「素顔の」ポートレートです。写真では見えませんが、胸元にあたる部分に高野虎市に宛てたサインもあります。
 
チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」 後編 おわり)
 
参考文献:「広島県立文書館展 チャップリンの日本人秘書 高野虎市:
『コーノ』に寄せられた期待」資料より

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