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縄文海進と古神道、神社、天皇制(31)- 結構調べた!やはりあの島!あの島は半島文化圏ではなかった!

縄文海進と古神道、神社、天皇制(31)

縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(28) - なぜ卑弥呼の時代の海洋渡海の方法が丸木舟と決めつける?
縄文海進と古神道、神社、天皇制(29) - 卑弥呼 -真説・邪馬台国伝-
縄文海進と古神道、神社、天皇制(30) - ローマのネロの時代から遣後漢使を日本は送っていたわけで、『三国志-魏志倭人伝』ばかりじゃないのだ。『晋書』、『宋書』にだって載っている。


結構調べた!やはりあの島!あの島は半島文化圏ではなかった!

今回は調べた話のデータ。

次回、倭国の、卑弥呼の辿った中国への道を解説する。

やっぱりあのルートしかなかった。

卑弥呼の時代、台湾の原住民の首狩りの風習はあった、もしかすると南西諸島・沖縄本島も。怖くて中継地にならない。だったら、佐賀県から華南に渡海するのは奄美大島や種子島を経由したはずだ

大航海時代の17、18世紀においても台湾、台湾の目と鼻の先のフィリピンには首狩りの風習を持つ部族が居住していた。

卑弥呼の時代は、大航海時代の17、18世紀を遡ること千五百年前。台湾の原住民にとっては先史時代に当たる。むろん、首狩りの風習はその頃もあったと推測される。

台湾原住民 - 出草(首狩り

台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異民族の構成員を殺し、その首を切り落とす風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。また、この行為には宗教的な意味もあった。

狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。

この習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。また、日本の武士が敵の首を切り落とす文化にも共通のものがある。

大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アミ・サイシャットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤミ族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。

フィリピン - イゴロット族

イゴロット族(イゴロットぞく、英語: the Igorots)はフィリピンのルソン島北部のコルディレラ・セントラル山脈、現在はコルディリェラ行政地域として規定されている場所に住むマレー系民族の総称で、さらにボントック族などの部族に分かれている。美しい稲の棚田を作ることでよく知られていて、かつては首狩りの風習を持つ民族であったが、スペイン、アメリカ、日本の統治を経てこの風習はもうない。

日本が台湾へ出兵するきっかけとなった 「牡丹社事件」


今日のリンク「沖縄歴史編」2022/06/02
● 琉球

琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が初出である。同書によると、「607年(大業3年・推古天皇15年)、隋の煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌608年(大業4年・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。

この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った。
※これは驚いたが、小野妹子は推古天皇の時代の遣隋使で、『隋書』が記録するかの「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者である。近江国滋賀郡小野村の出身で、奈良県明日香村の小墾田宮に出仕していたはずである。その彼が「夷邪久(イヤク)」つまり、屋久島や種子島・屋久島より南方の甲冑を見て出自を当てたということは、飛鳥時代の南西諸島、琉球列島との交流が多分にあったということだろうか?

帝は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。

同書は「流求國」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい

なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。


中国大陸から見た日本列島、南西諸島1

中国大陸から見た日本列島、南西諸島1

中国大陸から見た日本列島、南西諸島2

中国大陸から見た日本列島、南西諸島2

三国志、魏呉蜀の時代の中国と日本

三国志、魏呉蜀の時代の中国と日本

縄文海進と古神道、神社、天皇制(25)一万年前から祭られる縄文の神、『ヤンガードゥリアス期』の1万2,800年前の温度変化

ヤンガードゥリアス期

『ヤンガードゥリアス期』は六千年✕2≒12,800~11,600年前に起こったことだ。つまり、この時期に地磁気逆転(ラシャンプ地磁気エクスカーション)が発生したのかも知れない。

それにしては、六千年前に地磁気逆転(ラシャンプ地磁気エクスカーション)が起こったはずなのに、顕著な全地球での種の変化や気候変動がなかったのはなぜなのか?という疑問は残る六千九百年前に縄文海進が起こったが、これは全地球で海進が起こったということではない

縄文海進と古神道、神社、天皇制(10)クローヴィス彗星


● 縄文・弥生時代年表

縄文弥生年表
縄文・弥生時代年表

● 縄文・弥生時代人口推移1

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縄文・弥生時代人口推移1

● 縄文・弥生時代人口推移2

縄文・弥生時代人口推移2

● 縄文・弥生時代人口推移3

縄文・弥生時代人口推移3

● 縄文・弥生時代の人口密度

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縄文・弥生時代の人口密度

● 旧石器時代から縄文時代前期の大陸からの移動経路

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旧石器時代から縄文時代前期の大陸からの移動経路

● 吉野ヶ里遺跡と縄文海進時の海岸線

吉野ヶ里遺跡と縄文海進時の海岸線3
吉野ヶ里遺跡と縄文海進時の海岸線

縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、★ 魏志倭人伝


邪馬台国、大和王朝年代史

★ 魏志倭人伝(卑弥呼以前)

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(1)

◯ 大規模鬼界カルデラ噴火-7,300年前、九州の縄文人壊滅
◯ 縄文海進-6,900年前、現在よりも6メートル以上の海面上昇
紀元前四世紀頃(縄文時代後期)吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成
倭国大乱、後漢の桓帝/霊帝の治世(147 - 189)
諸国は共に一女子を立てて王とした。(卑弥呼以前の女王)
◯ 三世紀頃吉野ヶ里丘陵、集落は最盛期を迎える。

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(2)

★ 魏志倭人伝(卑弥呼時代)

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(3)

景初三年六月(魏の明帝の年号、西暦239年)倭の女王(卑弥呼は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に朝献したいと請求した
景初三年十二月西暦239年)魏の明帝は詔して倭の女王(卑弥呼)に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。汝(卑弥呼)を親魏倭王(外臣の爵号としては最高に属する)に任じ、金印・紫綬を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした」
景初六年西暦242年)、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた

★ 魏志倭人伝(卑弥呼の死)

卑弥呼の日食(1)、247 年 3 月 24 日
※ 部分日食は日没前に始り欠け具合は西にいくほど大きい。
※ 近畿では日没時に半分欠けたが北九州では八割くらい欠けた。
※ 日没前に日食は終了せず、太陽が死んだと錯覚される。

卑弥呼の日食(2)、248 年 9 月 5 日
※ 日の出前にすでに日食は始まる。
※ 太陽が昇って来た時にはすでに真っ黒く欠けていた。
※ 午前七時までで日食は終わった。
※ 247 年 3 月 24 日と異なり太陽は死んでまた復活した錯覚された。

◯ 卑弥呼の謀殺
  祟り神として、卑弥呼がアマテラスⅠに祀られる

★ 邪馬台国王位の簒奪

倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。
狗奴(くな)国(薩摩)、国王卑弥弓呼(ひみここ)による邪馬台国簒奪

★ 臺與がアマテラスⅡに祀られる

◯ 祟り神のアマテラスⅠ(卑弥呼)の「天」家(臺與の系統)への憑依による報復
◯ 祀り神のアマテラスⅡ(臺與)と祟り神のアマテラスⅠ(卑弥呼)の闘い
  祀り神のアマテラスⅡ(臺與)の勝利とその封印

★ 天家(天皇家)の確立

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(4)

巫女王の廃絶と男系の世俗的権威の王、「天」家の嫡男の「天皇」家世襲の確立
邪馬台国連合王国の西進、畿内への進攻、山陰山陽畿内への王権の確立
◯ 邪馬台国連合王国から、大和国(日本国)天皇絶対王権への移行
  女系アニミズム社会から男系社会への移行
(一妻多夫制から一夫多妻制へ)

★ 継体天皇家、臺與系神武天皇家の断絶

傍系天皇(継体天皇)家の家系移譲(臺與系神武天皇家の断絶)
臺與系神武天皇家、傍系天皇家(現天皇家)による家系隠蔽
  卑弥呼系、臺與系、傍系天皇家の歴史書上の隠蔽
◯ 崇神天皇五年(五世紀頃)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた
(アマテラスⅠの祟り)

垂仁天皇第四皇女の倭姫命、垂仁天皇二十五年(実際は六世紀頃)
  天照大神Ⅰ(祟り神のアマテラスⅠ)として八咫鏡Ⅰと共に伊勢神宮に
  祀った(伊勢神宮に封印した)

六世紀頃、天照大神Ⅱ(祀り神のアマテラスⅡ)として八咫鏡Ⅱと共に
  宇佐神宮に祀った(宇佐神宮に封印した)

古事記(和銅五年、712年)、日本書紀(養老四年、720年)の完成
◯ 古事記、日本書紀では卑弥呼は触れられていない。それは祟り神(アマテラスⅠ=卑弥呼)だったからだ。祟り神にあえて触れるのは、祟り神を揺り起こすことになる。その祟り神を封殺した祀り神(アマテラスⅡ=臺與)も祟り神を想起させる存在として、封印される。
アマテラスⅠは八咫鏡Ⅰと共に伊勢神宮へ、アマテラスⅡは八咫鏡Ⅱと共に宇佐神宮へ。


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