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【エッセイ】あのちゃん珍味説:「普通も常識も関係ない」と言う者が「近親相姦も個性だ」と言うようになる
カレーもラーメンも牛丼も、日本にはなかった料理だ。最初に日本に入ってきた時、それらの料理は珍味のようなものだったが、それがいつしか定番料理になっていった。
宇多田ヒカルやMISIAも、最初は珍味のような存在だった。聞き慣れない目新しい音楽だったが、すぐに日本の定番音楽となった。
一方、ウニ、イクラ、フグの白子は昔から日本にある料理で最初から珍味だったが、今までもこれからも珍味のままだろう。
タ
村上春樹に見る統合失調症:病名が記されない理由
◇序章◇
村上春樹の作品には、多くの場合、統合失調症を思わせる人物が登場します。『ノルウェーの森』『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『スプートニクの恋人』『街とその不確かな壁』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『1Q84』『かえるくん、東京を救う』などなど、短編長編含めて殆ど全ての作品において、明確には病名が記されては
梅雨寒に誰かと問えばリンゴ売り 井上陽水『氷の世界』:くどすぎて 毒かも ChatGPT
ユーザー:「井上陽水の『氷の世界』という曲について、あなたはどう解釈しますか?」
AI:井上陽水の「氷の世界」は、1973年にリリースされたアルバムのタイトル曲であり、日本の音楽史において重要な作品の一つとされています。この曲についての解釈には、様々な見方がありますが、以下にいくつかのポイントを挙げてみます。
孤独感と疎外感:
歌詞全体を通して、冷たく無機質な「氷の世界」というメタファーが用
エッセイ:「ゴキブリの巣に住み続ける廃人:繰り返し呪詛される全知全能者という虚像への堪え難き盲信」
私がもし仮に聖書やコーランに書かれているような全知全能の人格神だったならば、イエスやムハンマドのような偉人と呼ばれるような人々を何十人も拵えただろう。自分に似た神をも複数拵えただろう。だが、実際にはイエスやムハンマドが複数人いたわけではなく、ヤハウェやアラーも複数いるわけでもない。
神は合理的な行動を取っていない。全知全能なのかは疑わしい。
聖書やコーランは単なる創作物や文芸作品に過ぎず、イエスや
【エッセイ】「信仰という名の想像力の歩く墓場で:原理主義における進化論の拒絶と終末願望」
いわゆるキリスト教原理主義者は進化論を否定している。
地球には様々な種類の蛇がいるが、「ノアの方舟には蛇の原種の番いが乗っていたのだ」と彼らは主張する。マムシやアナコンダやキングコブラは、方舟に乗っていた蛇の原種の番いから枝分かれしたのだと。
ならばDNAにその痕跡が遺されているはずだ。だが、そんなものが実際に遺されていて、蛇が幾つもの種類に枝分かれしていったことがDNA解析から判明したとして
「イエスは神の子ではない:聖書の虚構と真性マゾ」
バベルの塔についての疑問。
はるか昔、人間が使っていた言語は一つだけだった。しかし人間がバベルの塔を建てたことで神の怒りを買い、神はバベルの塔を破壊し言語を様々に分裂させて人間同士の意志疎通を著しく困難にさせた。古代メソポタミアのジッグラトがバベルの塔のモデルと言われている。
さて、キリスト教原理主義者は、聖書を文字通りの意味で解釈していて、バベルの塔の話が実話に基づいているのだと主張する。も
エッセイ:「秋茄子は嫁に食わすな」に込められた戒め 「一富士二鷹三茄子」に秘められたフロイト心理学的暗示
「秋茄子は嫁に食わすな」の秋茄子は男根の比喩である。秋は収穫の季節で農家は忙しいのだからセックスは控え目に、という昔からの戒めの諺である。
秋サバ嫁に食わすな、秋カマス嫁に食わすな、秋フキ嫁に食わすな、五月ワラビ嫁に食わすな、など地方により表現の仕方はバラエティに富むが、いずれも性器に関係しているものと思われる。フキの茎は西日本では細いが、北海道や東北地方のフキの茎はかなり太く、男根並みとなる。
「エホバの証人と必要悪 : 無神論者の視点からの宗教と信仰の解釈」
丸い三角形は存在しない。よって神は存在しない。
神とは「美味しい笑顔」のようなものだ。笑顔には味などなく食べられないのだが、誰もが美味しい笑顔というものが存在しているかのように錯覚させられている。
宗教とは、人間がどこまで愚かになれるかを測る為の実験装置である。信者の人生の意味や価値とは、人体実験の標本としてのそれである。
ヤクの売人が刑務所で教誨師の影響を受けて改心し、出所してから神学校を出て